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温又柔『恋恋往時れんれんおうじ
「ふつう」じゃなくても大丈夫な場所を小説のなかに保ちたい

[特集インタビュー]

「ふつう」じゃなくても大丈夫な場所を小説のなかに保ちたい

温又柔さんの新作『恋恋往時れんれんおうじ』は、時間的にも空間的にも離れた場所で生きてきた近親者の記憶に主人公たちが手を伸ばす作品集だ。
日本育ちの語り手が祖母の葬式のために台湾に帰り、父の親族と再会したことで彼女・彼らの来し方、そして自分と母が抱えてきた疎外感に想いを馳せる「二匹の虎」。台湾人の留学生が恋人となった日本人の写真家にほんとうの自分を理解してもらえず葛藤にさいなまれる「被写体の幸福」。台湾人としても日本人としても半端だという気持ちを持ち続けた主人公が、柔らかい理解力のあるパートナーとともに自分を肯定して生きていく「君の代と国々の歌」。台湾で夫と離縁したのち独身を貫いた女性の孤独に、文化や国を越境しながら自由に生きる姪が寄り添う表題作。
社会が決めた「ふつう」からあぶれた彼女たちに温さんは優しい眼差しを向ける。その眼には何が映っているのだろうか。

聞き手・構成=長瀬 海/撮影=朝岡英輔

不安定な場所にいる人たちの拠り所

── 『恋恋往時』は、祖父や大叔母も含めた広い意味での「家族の記憶」を孫世代の語り手が見つめる短編が最初に三つ並びます。語り手が家族や親戚の経験してきたことのなかに自身を置き直すことで、自分とは何者なのかを考えようとする姿が印象的でした。なぜ今、「家族の記憶」を見つめ直そうと思ったのでしょうか?

 まずは、生きて行く上で、些細な幸福の記憶が、案外、心の拠り所になっているという実感を描いてみたいというのがはじめにありました。たとえば「二匹の虎」では、日本で育った台湾人の主人公・月瑜つきゆが、祖母の葬式に参列することで、それまであまり親しみを持てなかった父方の親戚との繫がりや台湾で過ごした幼少期の記憶が、想像以上に自分の支えになっていることを発見します。と同時に、月瑜という人物が家族の記憶を意識する姿を通して台湾の戦後史を描きたい気持ちもありました。今回に限らず私は、国と国をまたがって生きる人々の小さな個人史が、大きな歴史と交錯する場所に興味があるのです。

── 大きな歴史というのは戦争などの災厄のことだと思います。今年は戦後八〇年ですが、先の戦争と戦後に生まれた人との距離を考える必要がそこでは自然と生じるわけですね。

 そうですね。戦前と戦後と言ってみた時に、特に私の場合、台湾が日本の一部だった頃の歴史も含めて戦後八〇年や昭和一〇〇年という時間と無縁ではいられない。それをまったく意識せずに日本語で小説を書くことが私にはできません。

── 「二匹の虎」は前作『祝宴』とモチーフが重なる作品です。どちらの小説でも「兩隻老虎リヤンツーラオフー」という中国語の童謡が歌われますが、なぜ再びあの歌を登場させようと思われたのでしょうか?

 台湾人が両親である境遇の月瑜を描く上で、「兩隻老虎」は、最初からとても大事なモチーフでした。同じ台湾人といっても、月瑜の父親の一族は日本統治下の時代も台湾で暮らしていた「本省人」で、月瑜の母親の両親は戦後になって日本が台湾を去った後に大陸から移住してきた「外省人」という立場です。「二匹の虎」の月瑜がそうであるように、『祝宴』の主人公である明虎ミンフーという男性の娘もまた、幼少期に台湾から日本に渡っていて台湾の童謡といえば、「兩隻老虎」しか覚えていません。ただ、『祝宴』の場合は父親の方が外省人という設定だったので、「二匹の虎」では母親が外省人の場合、同じ歌の記憶が日本育ちの娘にとってどう響くのか描いてみたかったのです。耳と尻尾がないせいでおかしいとからかわれる二匹の虎がかわいそうだと幼い娘に告げる月瑜の母は、中国大陸にある故郷から切り離された自分の親や自分自身の境遇を耳と尻尾のない虎たちに重ねているんですね。

── 月瑜の亡くなった母は台湾で暮らしてきたのに、ほんとうの台湾人だと周りから思ってもらえず、疎外感を味わいながら生きてきた。そんな月瑜の母親の孤独は『祝宴』の社会的な承認を得た父である明虎のものとは大きく違うわけですね。

 はい。明虎が元々台湾に住んでいた妻の一族から受け入れられているのは彼が社会的成功者だからなのではないかという疑念がずっとありました。だから『祝宴』を書き終えてすぐに、次は母親の方が外省人のパターンの家族も書いておかなければ、と思ったのです。養ってもらっている女性の方がマイノリティの場合、マジョリティである男性の親族はどんな態度をとるのだろうかと。より残酷なのではないかと。しかし、どちらも「よそ者」としてみなされてきたという点では共通しています。その「よそ者」としてのよるべなさみたいなものに注目してしまうのは、私自身が生まれた国である台湾と育った国の日本のそれぞれに対して距離を感じてきたことも影響していると思います。

── そのような歴史を生きた人々をよるべなさを抱えた若い世代の月瑜が見ると、そこにある眼差しの「距離」のなかに孤独の実態がずっしりとした重みを持って映しだされる。そのときに読者に手渡される感情は歴史を教科書的に理解するだけでは知りえない。小説を読むことの意味がここにあるのだと実感しました。

 ありがとうございます。もちろん私は、月瑜の大叔母たちのように白色テロ(戦後の政治的弾圧)を経験したわけではないし、月瑜の母親のように外省人二世として生きたこともありません。だからこそ、そんな自分が月瑜という人物の現在地を描くことを通して、過酷な歴史の当事者たちとどのような関係を結ぶべきなのかすごく考えました。だからこそ彼らとの「距離」は私にとって非常に重要で、小説を書く上で「距離」を私は一番大切にしたいと思っています。

中途半端を許容する

── 「被写体の幸福」は収録作のなかでは初出が最も古い作品です。日本に留学している台湾人女性と彼女の気持ちを理解できない日本人の写真家のすれ違う恋愛を描いた同作は、二〇一六年に刊行された『GRANTA JAPAN with 早稲田文学03』に掲載されました。今回、この小説を読み直して何を感じましたか?

 これは、日本人男性の写真家が自分の見たいものしか見ようとしていない姿を描くことで、日本と台湾、そして、男性と女性の不均衡な関係を表現してみようと意気込んで書いた短編です。『文学2017』(日本文藝家協会)にも収録していただいたものですが、八年を経て改めて読み返すと、主人公をまったく理解しない写真家の姿を描くのに躍起になりすぎて、主人公が写真家に心惹かれる過程をおろそかにしていると感じたため、今回、そのあたりを大幅に加筆・修正しました。

── この小説では思希しきという台湾人の女性が被写体となり、恋人の日本人が彼女を写真に撮りますよね。つまり、見られる思希と見る写真家という非対称性があります。被写体というモチーフを選んだのはなぜだったのでしょう?

 実はこの作品は日本統治時代の作家・呂赫若りょかくじゃくが書いた日本語の短編「玉蘭花ぎょくらんか」へのオマージュとして書いたものなのです。「玉蘭花」は台湾人の主人公が、まだ子どもだった日本統治時代に親しく付き合った日本人の撮った写真を戦後、見返しながら当時のことを思い出していくという小説です。当然、撮影者の日本人はそこには写っていない。ただ、彼に見られていたという事実だけが写真というかたちで残る。そんな小説の作り方が面白くて、二〇一六年の時点で私が「玉蘭花」を書くとしたらどうなるだろうと思いながら構想しました。

── なるほど。被写体というのは日本統治時代に日本人から眼差しを向けられた台湾人のことでもあるわけですね。思希はかつて日本人だった彼らと戦後生まれの自分を結ぶ紐帯ちゅうたいを確かめようとしているのだけど、写真家にはそれがわからない。だから苛立ちながら自分の価値観を押し付けようとする。最後に彼が言い放つ「わめくなよ!」はなかなか酷い。

 彼は思希の心情を理解せずに彼女を意のままにしようとするんですよね。『魯肉飯ロバプンのさえずり』という長編小説でも私は、日本人男性と台湾人女性という夫婦を書きましたが、この写真家と『魯肉飯のさえずり』の夫・柏木は、恋人や妻を「可愛い」と言いながら彼女たちの内面や本心には一切関心がない。写真家や柏木にとっての「可愛い」とは、自らを決して脅かさない存在です。そしてこれは、宗主国の人間が植民地の現地人に、要するに、支配者が被支配者に向ける眼差しと酷似しています。

── 一方で「君の代と国々の歌」に登場する夫・立樹たつきは柔軟な理解力がある日本人の男性ですね。写真家や柏木の対極にいるような男性で、台湾人の妻である瑛樹えいじゅをありのままに受け入れる彼の優しさはこの短編集の希望のように見えました。

 日本で育った語り手の瑛樹は台湾に帰っても、親戚から「おまえは台湾人というよりは日本人だもんな」と言われる境遇です。日本人としても台湾人としても中途半端な自分自身を持て余していた瑛樹でしたが、立樹の方は、彼女のそんないびつさを含めて理解し、自分が日本人であるからというだけで、そうでない瑛樹より優れているとは考えません。立樹は、台湾人である瑛樹の家族や親戚のことも尊重していて、瑛樹との間にできた自分の娘にも中国語を教えるし、日本以外にもルーツがあるのは豊かなことなのだと伝える父親です。そんな立樹と長くいるうちに瑛樹は、日本人としても台湾人としても半端なせいでいびつだと思わされていた自分自身を、なかなか面白い、と受け入れるに至るのです。

── しかし逆に言えば、その半端さを欠落だとみなす世界に私たちは生きているということですよね。

 残念ながら、そうなんですよね。自分は自分。それでいいはずなのに、あらゆる規範から少しズレただけで、自分は劣っていると思わされる。考えてみれば私の小説は、規範から否応なくズレている人たちが、ふつうでない、とか、いびつだとか感じさせられてきた自分自身を、いや、このズレこそが尊ぶべき私自身だと発見する過程を辿るものばかりなのです。

── 今回の短編集のなかには「羨ましい」という言葉が繰り返し出てきます。この言葉は瑛樹や「二匹の虎」の月瑜のような自分で選んだわけじゃない境遇を生きた人間に向けられると暴力的に見える一方、彼女たちが自分の人生を肯定するための端緒にもなり得ますね。

 鋭いご指摘、感動しています。まさに私は、育った国でずっと外国人扱いされ続けていることや、台湾人なのに中国語ではなく日本語しかうまく話せないことなど、当人にとってはコンプレックスの種だったことを、他の人が何の気なしに羨ましがる場面を描くことで、自分の小説の主人公たちに、それは必ずしも嘆かわしいことではなく、見方を変えればむしろ羨望に値するのだと気づかせたかった気がします。

── 「羨ましい」という言葉を放つ人には一つの文化の内側に閉じ込められている感覚があるんだと思います。『恋恋往時』の主人公たちはそこから自由になれているように見えるから彼らに羨望されるんでしょうね。

 そうだと思います。だからそれは誇っていいことなんだよと気づいてもらいたかったんです。
「ふつう」じゃない人たちが報われる世界を

── ここまでの三作品は戦争経験者の孫世代が視点人物でした。最後の「恋恋往時」は「二匹の虎」にも駄菓子屋の店主として登場した來春ライチュンという七十代の女性が語り手です。なぜ月瑜や思希、瑛樹とは違う世代の人物を最後に描いたのでしょうか?

 実は編集者さんからの提案だったんです。「二匹の虎」を書いたときに編集部で「あの駄菓子屋さんのおばさん、気になる存在だね」って話題になったみたいで。言われてみたら私も、駄菓子屋の彼女の半生を想像するうちに彼女のことが、どんどん好きになったんです(笑)。月瑜の祖母の葬儀に父親と共に現れた彼女が月瑜の目に美しく見えたのなら、白髪の手入れもせず駄菓子屋の軒先にいた頃がどん底だとしても、その前と後を、彼女は懸命に生きたはずだと。

── 台湾で生まれ育った來春は、置かれた境遇も世代も温さんとは異なる人物ですよね。彼女を小説のなかで描くにあたって何を考えましたか?

 私はこれまでずっと、社会のなかで「ふつう」と見なされずに、自分をいびつだと思わされてきた人たちが、あるがままの自分を受け入れる勇気を得て、報われる瞬間を書きたいと思ってきました。
「恋恋往時」ではそのことを日本と台湾のナショナルな問題のなかでではなく、父親から來春という名を与えられた一人の台湾人女性の半生を通して表現してみたかったのです。
 ただ、私が書くなら、やっぱり日本や日本語との関係も含めて書きたい。それで日本人との結婚と離婚を経験し、今はアメリカで暮らしている姪の月敏ユエミンを登場させました。月敏の名付け親は祖父で、つまり同じ人物から來春、月敏と名付けられた伯母と姪の小説にしたかったのです。

── 來春は若い頃にあちこちから見合い相手を紹介されたと言います。作中では「あの頃はそれがふつうだった」と書かれていますが、そんな抑圧的な世界で葛藤し続けた彼女に一つ下の世代の姪が寄り添おうとする優しさがあたたかく光って見えました。でも考えてみればその優しさは温さんの小説にいつも込められているものですよね。それが必ずあるから、温さんの小説はどんなときも読者を励ましてくれるんだと思います。

 ありがとうございます。私自身が、あたたかく光る優しさをいつも求めていて、小説に限らず、それを与えてくれる物語に救われる日々を送っているので、私の小説のことを、そのようにおっしゃってもらえると、まさに報われる心地がします。
 非常に心が痛むけれど、「ふつう」でないとレッテルを貼られがちな人たちにとっては言うまでもなく、「ふつう」であることにかろうじてしがみついている人々にとっても、この世界はますます過酷になっているなと思います。だからこそ私は、ちょっとぐらい「ふつう」じゃなくても大丈夫な場所を、せめて自分が書く小説のなかに保ちたいのです。

温又柔

おん・ゆうじゅう●1980年、台北市生まれ。
両親とも台湾人。幼少時に来日し、東京で成長する。2009年「好去好来歌」ですばる文学賞佳作、16年『台湾生まれ 日本語育ち』で日本エッセイスト・クラブ賞、2020年『魯肉飯のさえずり』で織田作之助賞を受賞。著書に『来福の家』『真ん中の子どもたち』『空港時光』、エッセイ集『「国語」から旅立って』、小説家・木村友祐との往復書簡集『私とあなたのあいだ─いま、この国で生きるということ』、編著に『李良枝セレクション』など。

『恋恋往時』

温又柔 著

4月4日発売・単行本

定価2,200円(税込)

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