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吉村龍一『深川めおとそば』(集英社文庫)
を細谷正充さんが読む

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満足満腹の物語

 吉村龍一が来た。時代小説界に、やって来た。第六回小説現代長編新人賞を受賞した『焰火ほむらび』を始め、『海を撃つ』『清十郎の目』と、昭和前期を舞台にした作品は、いままでにもあった。しかし江戸時代を扱った本格的な時代小説は、本書が初めてである。だから、いったいどのような作品なのか、期待せずにはいられない。
 江戸の深川に蕎麦屋の〈米沢屋〉が暖簾のれんを出してから三ヶ月が経った。しかし客の入りは壊滅的だ。理由は、はっきりしている。〈米沢屋〉の出す、黒くて太い原方はらかた蕎麦が、のど越しのいい更科蕎麦を好む深川っ子に、受け入れてもらえないからだ。米沢領上杉家中から、原方蕎麦を深川で売り込む先鋒に選ばれて店を営む、おみなと力也も、意気消沈するばかりである。そんな〈米沢屋〉に、お奈津という少女が転がり込んできた。蕎麦に詳しく、嗅覚の鋭いお奈津の言葉で、おみなと力也は、自分たちの問題に気づくのだった。
 おみなと力也にとっては、原方蕎麦が一番である。それが固定観念になって、そこから踏み出せずにいた。お奈津により、このことを理解したおみなと力也は、試行錯誤をして新たな商品を作り出す。その過程が読みどころだ。後半になると、おみなが新たな出汁の開発にのめり込む。蕎麦の美味しさに挑み続ける、若者たちの行動が爽やかだ。
 その一方で、さまざまな要素が物語に盛り込まれている。行方が分からなくなっているお奈津の兄の一件や、〈米沢屋〉に対するいやがらせの部分は、面白いミステリーになっている。また、〈米沢屋〉を気にかけてくれる人々や、常連になっていく客たちの人間ドラマも印象的である。なかでも、脳の血管が破れて、ほとんど食事のできなくなった〈米沢屋〉の恩人のために、おみなたちが工夫を重ねるエピソードは、胸に迫るものがあった。読み終わった後、心が温かくなる物語に、満足満腹なのである。

細谷正充

ほそや・まさみつ●文芸評論家

『深川めおとそば』

吉村龍一 著

8月21日発売・集英社文庫

定価748円(税込)

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