[本を読む]
満足満腹の物語
吉村龍一が来た。時代小説界に、やって来た。第六回小説現代長編新人賞を受賞した『
江戸の深川に蕎麦屋の〈米沢屋〉が
おみなと力也にとっては、原方蕎麦が一番である。それが固定観念になって、そこから踏み出せずにいた。お奈津により、このことを理解したおみなと力也は、試行錯誤をして新たな商品を作り出す。その過程が読みどころだ。後半になると、おみなが新たな出汁の開発にのめり込む。蕎麦の美味しさに挑み続ける、若者たちの行動が爽やかだ。
その一方で、さまざまな要素が物語に盛り込まれている。行方が分からなくなっているお奈津の兄の一件や、〈米沢屋〉に対するいやがらせの部分は、面白いミステリーになっている。また、〈米沢屋〉を気にかけてくれる人々や、常連になっていく客たちの人間ドラマも印象的である。なかでも、脳の血管が破れて、ほとんど食事のできなくなった〈米沢屋〉の恩人のために、おみなたちが工夫を重ねるエピソードは、胸に迫るものがあった。読み終わった後、心が温かくなる物語に、満足満腹なのである。
細谷正充
ほそや・まさみつ●文芸評論家