[今月のエッセイ]
ヤマトンチュが沖縄を書くこと
今回沖縄の本を書いたにもかかわらず、恥ずかしながら私は30代まで沖縄に無関心だった。知っていることは、映画の『ひめゆりの塔』や沖縄戦の悲惨な光景くらいのものだった。
私が小学校2年生のとき沖縄が日本に復帰したが、全校児童が体育館で黙禱しただけだった。5年生のとき沖縄海洋博が開かれたが、話題にならなかった。一地方の記憶だが、身の回りの世間の沖縄に対する意識でもあったかもしれない。自分たちの住処から遠い沖縄は異国のようで、長く米軍占領下にあったため、報道が少なかったせいもあった。
だがどんな理由であれ私たちが無関心の間に、沖縄では米軍による事件は多発していた。昨年末も16歳未満の少女が性的暴行を受けたという。過去の自分の態度を今恥じている。
そんな私が沖縄に関心を持ったのは、2002年に八代工業高等専門学校(現熊本高等専門学校)の教授から、私の故郷(熊本県八代市)が沖縄と縁があると教えられたからだ。
沖縄でたくさん咲くブーゲンビリアがこの地で一面に咲くというのだ。さっそく見に行ったが近くの
日奈久温泉は戦時中、沖縄からの学童疎開でもっとも多くの人数を受け入れた場所である。はからずも疎開児童が学んだ小学校は私の母の母校だった。疎開が縁で、八代には多くの沖縄出身者が今も住んでおられるという。
ブーゲンビリアをきっかけに、以後急激に沖縄が私に迫って来た。故郷と沖縄とのつながりが次々と発見された。高校時代に土器を拾った
疎開船対馬丸が米軍の潜水艦に撃沈され、多くの犠牲者が出たことは、あまりにも有名である。生存者の
ハンセン病医療施設に「沖縄愛楽園」がある。戦前に
今、私は思う。自分の身近なところに沖縄があることに気づいてから、私の想像以上に途方もなく沖縄との糸が結ばれていることを知った。私だけでなく、多くの人もふだんは気づかないが、自分の周りに意外な形で沖縄が存在し、糸で結ばれているのではないだろうか。その糸をたぐり寄せていく行為が、ヤマトンチュ(本土の人)が自分なりの沖縄を見出す最良の方法になる。
たしかに沖縄は今も米軍基地をはじめとする困難な問題を抱えている。昨今は台湾有事の名目で南西諸島にミサイルが配備されている。
それよりも自分の近くで見つけた沖縄との糸をたぐり寄せ近づくことで、ごく自然に沖縄を好きになることが大事なのではないだろうか。自分の周囲から興味は無限に広がり、沖縄が今抱える深刻な問題も他人事でなくなるだろう。そんな沖縄へのアプローチの仕方もあることを本書から伝えたかった。
初めて沖縄に行ったのは、18年9月。飛行機で九州を過ぎて海の上を南下し、どこまで行くのだろうと心細くなった。改めて沖縄との距離を感じた瞬間だった。その寂しさを払拭してくれたのはウチナンチュ(沖縄の人)たちだった。
私の故郷に学童疎開した方は、「熊本に足を向けて寝られない」と言ってくださった。このときウチナンチュと、一気に距離が縮まった思いがした。
本書のモチーフは故郷と沖縄を繫ぐ糸から沖縄を知るという内容のため、取材の4割近くを本土の沖縄ゆかりの土地で行った。沖縄から見た本土、本土から見た沖縄、ウチナンチュとヤマトンチュ、相互に描くことで、相対的な沖縄と本土の交流の姿が見えてきたように思った。
私はウチナンチュではない。よそ者という負い目もあり、沖縄を書きたいと思いながら、足を踏み出せないでいた。今回は編集者の後押しもあって、戸惑う間もなく沖縄に連れて行かれた。何も知らなかっただけに、多くの人が当たり前のこととして、見過ごしてしまう沖縄の出来事に率直な疑問をぶつけることができた。
普天間飛行場や
コロナ禍の前、取材で訪れた「沖縄愛楽園」の浜辺から見た透き通るような青い海を思いだしている。こんなきれいな海を見たのは初めてだった。青い海と出会えたのも、私の隣にある沖縄に気づいたおかげだった。願わくばウチナンチュ、ヤマトンチュという区分けが消えて、同じ仲間として生きる日がくることを。私の素朴で率直な願いである。
澤宮 優
さわみや・ゆう●ノンフィクション作家。
1964年熊本県生まれ。主な著書に『巨人軍最強の捕手』(第14回ミズノスポーツライター賞優秀賞)『スッポンの河さん』『世紀の落球』『バッティングピッチャー』『昭和十八年 幻の箱根駅伝』『イップス』『暴れ川と生きる』『「二十四の瞳」からのメッセージ』『天守のない城をゆく』等がある。