[本を読む]
「忙しそうですね!」が飛び交う社会で
よく、「忙しそうですね!」と言われる。「そんなことないですよ」と返したり、「ええ、まあ……」と返したりする。相手は煮え切らない顔をしている。何を望んでいるのだろう。「ホントもう、ヤバいんですよ!」くらいがいいんだろうか。
自分の忙しさをプレゼンし続ける人がいる。その様子を見て、暇そうだなと思う。別に、暇は悪いことではないのだが、彼らは暇を嫌がる。彼らにとって、「忙しそうですね!」は褒め言葉なのだろう。
「『生き残れ』という一語には、いまの社会で人を競争に駆り立て、競争そのものを助長する考え方が潜んでいる」と著者は書く。同じような条件でスタートした奴らを蹴倒し、踏み潰し、自分が一番にゴールする。負けは自己責任になる。勝っている人がいるのに、あなたはそうではないのだから、負けたのだ。勝った人は、勝っていない人に対して、勝ってないんだから黙れと
「忙しそうですね!」という語りかけは、椅子を取りましたね、と同義なのだろうか。こういう仕事(=ライター)をしていると、他の仕事をしているよりも名前が目立つ。働きぶりが可視化される。ここで書いています、ここで話しています、そのプレゼン次第で、自分のイメージを管理できる。危ういな、と思う。
著者は、文学作品や映画作品を通して、「歯切れ」のよさ・悪さを論じる。この競争社会を「おりる」ためには「歯切れのよくない」状態を保つ必要がある。今、それが難しい。どう難しいか。たとえば、この書評がウェブに転載されればクリック数がチェックされる。著者の本の売り上げもチェックされる。数値が良ければ、また次の仕事が来るかもしれない。生き残れる。自分が他人にハンドリングされる。このジレンマをどうすればいいのか、悩みながら読んだ。
武田砂鉄
たけだ・さてつ●ライター