[特集インタビュー]
禍を福に転じた人生
――明治の起業家・服部金太郎はなぜ成功したのか
セイコーホールディングスグループの創業者、服部金太郎。丁稚奉公から時計修理職人を経て、時計の製造工場「精工舎」を設立した金太郎は、国産初の腕時計を製造販売するなど、時代の先をつねに読み、一歩ずつ己の夢を叶えていく。その一方で、火災や震災、同業者からの横やりなど、数々の困難が彼の人生を襲った。
『修羅の宴』でバブル期の狂乱を、『砂の王宮』で戦後の混乱期に安売りでのし上がった流通王を描いた楡周平さんが、今回挑んだのは有名実業家の実名小説。“世界のSEIKO”の
明治と令和、時代は変わっても変わらないものがあると語る楡さんに服部金太郎の魅力、小説執筆の舞台裏を聞いた。
聞き手・構成=タカザワケンジ/撮影=chihiro.
史実をベースにしたフィクションを書いた
―― これまでも楡さんはビジネスの世界を題材にエンタテインメント小説を書いていますが、今回はセイコーホールディングスグループの創業者、服部金太郎の人生を実名で書かれています。実名で書こうと思われたのはなぜでしょうか。
今までやったことがありませんでしたからね。史実に忠実じゃなくてもいい、創作でいいとセイコーさんに言っていただけたので、書けたんです。ですから、必ずしもこれは服部金太郎氏の生涯を忠実に反映したものではありません。作者として怖いのは、服部金太郎氏の伝記と受け取られることですね。史実に基づいてはいるけども、それぞれのシーンでは多分に想像が入っているのであくまでもフィクション。事実と想像がない交ぜになった作品だということは分かっておいてほしいんです。
しかし、そもそも史実に忠実にといっても、そのときどきにどんな会話がされていたかは知りようがないですから、小説にするには想像して書くしかないわけですよね。資料はずいぶん調べましたが、金太郎氏が時計商を志した動機や、どこまで上り詰めようと思っていたのかなんてことはどこにも書いていない。周りの人間関係でもはっきりしないことが多いんですよ。例えば、金太郎氏が最初に丁稚奉公に上がった洋品問屋「辻屋」の主、辻
―― 服部金太郎についてはあまり資料が残っていなかったのでしょうか。
あることにはあるんですが、資料によって微妙に違うんです。いろいろ読んだんですが、執筆に入ってからは使う資料の数が次第に絞られてきましたね。最後にこれが一番信憑性がありそうだという資料が出てきて、単行本にする最終段階で直したところもありますが。
―― なるほど。『黄金の刻』の中で辻粂吉は金太郎の最初の理解者であり、その後も折々に関わってきます。金太郎は辻に時計を商おうと思った理由を「宝石は人間には造れないけれど、時計は人間が造れる宝石なんだ」と語っていましたけど、あれは――。
まったくの想像。創作です。編集者との最初の打ち合わせで、時計商を志すきっかけになる強い言葉が欲しいということだったので、その場で僕がパッと言った言葉なんですよ。金太郎氏の言葉ではないんです。
―― リアリティーがあって、本当にこういうことがあったんじゃないかなって思ってしまいました。
歴史小説がそうですよね。大まかな事実には歴史的な史料があるけれど、織田信長がこう言ったとか、何を考えていたかというのは作家が想像して書いたこと。服部金太郎氏もすでに歴史上の人物なんですよ。『黄金の刻』も服部氏の生涯を題材とした、作者の創作が入った小説ということですね。
―― なるほど。服部金太郎の物語でもあるけれど、同時に楡さんの目から見た日本の近代の黎明期に活躍した事業家の物語でもある。では、なぜいま服部金太郎なのでしょうか。
服部金太郎氏について調べていくと、こういう人物はいつの時代においても活躍できるなあ、と思ったんですよ。金太郎氏はいまの時代でいえばベンチャーで成功した起業家です。一方で、いま、お金も人材も揃っているはずの大企業が新しいビジネスを始めてもうまくいかなかったりする。それはなぜか。いつの時代も先が読めて、自分の考えを信じて事業に邁進する人が成功するんです。いつの時代もチャンスはあります。それが服部金太郎氏の資料を読みながらずっと考えていたことですね。
―― 先が読める人がいるとおっしゃいましたが、裏を返せばほとんどの人は読めないということですよね。
今日の暮らしは明日も続くと皆さん思っていらっしゃる。いま人気の仕事が二十年、三十年後にどうなるかを考えようとはしないんですよ。だけど、これからの時代はこれだと読んで、いち早くその道を進む人たちがいるんです。とくに明治という時代はそれがよりダイナミックに実現していった。だからすごく面白い時代なんです。
「約束を守る」が生涯のポリシー
―― そんな明治時代に服部金太郎は、これからは「時計」が必要とされると考えます。時を知ることが必須の時代になると。まさに先見の明です。
服部金太郎氏のすごいところはそれだけではなく、最初から時計販売に乗り出さずに、まず「修理」を手がけたことです。修理を軌道に乗せたら、次に中古時計の販売を始める。あそこは史実通りです。質流れ品や、古道具屋で売っている時計を安く買ってきて、修理して売って、顧客の信頼と資金を得ることで、事業の礎を築きました。
―― 一歩ずつ着実にステップアップしていくわけですね。しかも、成功した後も歩みを止めずに新しいことにチャレンジしていきます。
外国商館との取引に成功したことも大きかったですね。輸入時計の販売を手がけることになるわけですが、商取引上の約束をきっちりと守って評価された。約束を守ることは、金太郎氏の生涯を通じての一貫したポリシーですね。
―― 支払い期日をしっかり守ったんですよね。当時、同業他社は、日本の商習慣だからと支払いを勝手に先延ばしするところが多かった。
「盆暮れに清算する」など、江戸時代からの日本独自の商習慣が明治になっても残っていたんです。いまの日本でも、ようやく廃止される動きがありますが手形がそうですよね。手形って実は前近代的なものなんですよ。なぜ必要だったかというと支払い猶予のため。商売上のズルとまではいいませんけど、特殊なテクニックが発達して日本のビジネスが成り立ってきたところがあるんです。その根底にあるのは「情」なんですよね。
でも、外国商館との取引は情の部分を一切排している。それがよく表れているのが契約書です。海外企業の契約書は分厚いんですけど、なぜかというと、事細かく決めておいて後で争い事を生まないため。もしもこういうことがあったらこうなりますよ、ということをあらかじめ決めておく。これがすごく重要なんです。
ところが、最近は変わってきていますが、日本の契約書って薄いし、「甲乙、お互い信義に基づいて誠意を以て対処する」みたいなことが書いてあった。でも、争いになったときには誠意もへったくれもないでしょう。お互いに言い分があってもめるわけで、それを避けるための契約なのに。
だから、日本人、特にあの明治時代の人たちは、支払いがちょっと遅れるくらいなんだ、盆暮れでまとめてでいいじゃないか、みたいな感覚でやっていた。そんな中で約束を確実に守る金太郎氏のような人物がいたら、外国人が高く評価するのは当然ですよ。
経営者に必要な三つの資質
―― 『黄金の刻』は服部金太郎が「精工舎」を立ち上げ、時計メーカーとして成功していく物語ですが、服部金太郎が成功できたのはなぜだと思われますか。
一つは出会いですね。成功する人って絶対人に恵まれるんですよ。一人の力でやってきたという人はいなくて、必ず支える人たちが出てくる。金太郎氏の場合は、奉公先の辻粂吉や時計製造の技術面を担った吉川鶴彦をはじめ、いろいろな人たちとの出会いがあった。出会いがない成功者というのはまずいないでしょう。
例えば、スティーブ・ジョブズはスティーブ・ウォズニアックと出会ったところからアップルを創設したわけだし、ビル・ゲイツもポール・アレンっていうプログラマーと共同でマイクロソフトを立ち上げていますよね。金太郎氏にとっても吉川鶴彦との出会いがあった。成功する起業家は、二人三脚あるいは三人四脚で進んでいくものなんですよ。
―― 金太郎も鶴彦も徒弟制度の中から出てきた人物ですが、二人の会話で出てくる「技は盗むものとは、いい換えれば、見たものを徹底的に頭に叩き込めということです」という言葉が印象的でした。
多分それはどんな仕事でも同じだと思うんです。すしの職人でも、下手な親方の店からすばらしい職人が出たという話は聞いたことがない。とはいえ一流の料亭でもレストランでもそうですけど、手取り足取り教えているわけじゃないんですよ。どういう具材を選んでいるのか、どういう包丁の使い方をしているのかをよく見ていれば、それを再現するのが最初の目標になっていく。親方のレベルにどうやって近づくか。次はどうやったらもっとよくなるかをめざすようになる。手本というのは本当に大切です。だから最初に誰と出会うか、誰につくかは重要ですね。
ビジネスマンも同じだと思うんです。最初に出会う人は本当に大事です。最初に誰の仕事を見るかによって仕事に対する姿勢が違ってくる。すばらしい仕事のやり方を間近に見た人は、見ているだけで覚えるんですよ。もちろん見る側の資質も問われるわけで、新入社員がどれくらい熱意をもって上司や先輩の仕事を見ているか、どれくらい観察力があるかで、その後の伸びしろが全然違ってくるんだと思います。
―― 鶴彦自身も時計店の店主だったのですが、金太郎と出会って、自分は経営者としては金太郎に到底及ばないから技術に徹しようと考えますよね。金太郎の経営者の資質とは何かもこの小説の読みどころだと思います。
経営者の資質って誰もが持っているわけではないんですよね。私は会社勤めも経験していますけど、参謀役をやらせるとすごく優秀だけど経営トップは向いていないという人が組織にはいるんですよ。仕事がすごくよくできて頭が切れて、という人が社長に向いているかというと、僕は必ずしもそうじゃないと思う。経営者と従業員とでは要求される資質が違いますから。
経営者に必要な資質は、人をうまく使えるか。そして、最終的に自分で責任を取れるか。それともう一つ、情の部分と冷酷な部分とを併せ持っていることですね。両方をうまく使い分ける人じゃないと成功しないんですよ。
絶対にへこたれない
―― 服部金太郎は丁稚奉公から始めて時計メーカーとして成功した立志伝中の人物ですが、最初の結婚に失敗したり、店を火災で失ったり、関東大震災に遭ったりと、幾重もの苦難を乗り越えていますよね。
ただ金太郎氏の場合、災難に遭うたびにいい方向に行っているんですよね。小説の中で「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉を引いていますが、何が
―― ありますね。
その逆に、こんなにいい人に巡り合ったと思って結婚したつもりが、そうじゃなかったということもあるわけで。あのときにこういう出来事があってうまくいかないと落ち込んだけれども、おかげでいまの自分がある、そう思える人生って幸せなんですよ。
―― 金太郎の人生もそうですね。おっしゃる通り、禍が飛躍のきっかけになっています。
もちろんそのときは落ち込んだと思うんですよ。ところが金太郎氏のその後を見ていくと、まさに禍が福に転じていく。結果的にこうなるためにあのときの不幸があったんだと思える。だから、金太郎氏ってとても幸せな人だと僕は思いますね。その瞬間瞬間は大変だろうけど、振り返ってみたらすごく面白い、楽しい人生だったろうなと思いますね。
―― 金太郎のことを調べていって、共感できるところ、すごいと思うところがありましたか。
たくさんありましたね。ただ、僕は現役の事業家の方たちと交流があるので分かるんですが、成功した面だけ見ていると、恵まれた人生だなと思うんだけど、どんな事業家もそれぞれ大変な苦労をなさっているんですよ。少なくとも僕が知っている一代で会社を大きく育てた方たちはそうですね。大変な時代を経験しているし、そういう経験を乗り越えて成功されていますからね。
彼らはへこたれないんですよ、絶対に。あと負けず嫌いですね。それから強い信念を持っている。そして重要なのがお金を追っていないこと。金目的で商売はしてない。結果的にお金がついてくる。服部金太郎氏も恐らくそうだったんだろうなと思いながら書いていました。
どんな商売でもそうなんですけど、頭の中がどうやって儲けるかばかりになると、顧客をだますことを考えるようになるんですよ。そういう売り手のズルを客は敏感に見抜きます。飲食店が分かりやすいですけど、お客さんに喜んでもらいたい、美味しいと言ってもらいたいと思って料理を出しているお店、それを第一に考えているお店は繁盛するんです。だけど、どうやって原価率を低くするか、どうやって気づかれずに量を減らすかに意識が向いている店は、やっぱり客に見抜かれるんですよ。
「学」が武器になることをよく分かっていた
―― ある人物の生涯を描くとき、どこからどこまでを書くか、どの部分を書くかを決めるのは難しいと思います。取捨選択はどのようにされたのでしょうか。
服部金太郎氏の人生を全部追っていったら、当然一冊で終わらないですよね。それから金太郎氏と関わった人たちもたくさんいますから、彼らそれぞれにサブストーリーをつけようと思えばいくらでもつけられるんですよ。さっき話に出た吉川鶴彦氏だったり、金太郎氏の奥さんであったり、ご両親であったりとか。それぞれの物語を書いていけば読み物としてはもっと面白くなると思うんですが、活字の世界で描くには長くなりすぎてしまう。それこそネットフリックスあたりで(笑)。
―― ドラマシリーズにしたほうがいいですね。
一回一時間で十六回とかね。『愛の不時着』くらいのボリュームでやっていったら面白いと思いますよ。それぞれの登場人物についてエピソードを作って、メインストーリーとは別にもっと膨らみを全体で持たせられれば。それを一冊の小説でやるのは無理ですから、そういう意味では、どこの部分を書くのかというのは、とても難しかったですね。
―― そこでフォーカスされたのは、服部金太郎の経営者としての側面ですね。起業家としての、リーダーとしての姿。
それに加えて、人物像でしょうね。正直な人、真面目に生きてきた人だということを書きたかったんです。
―― 十三歳で丁稚奉公に出て、十五歳で時計店に修業に出て、そのかたわら漢文を学びに私塾に通う。勉強家で努力家です。
学というのは武器なんだと。人生を生き抜くための知恵を身につけるんだと。その辺をすごくよく分かっていた人だと思います。だから、寝る間も惜しんで塾で漢籍を習っていたんでしょう。会社を興してからは、従業員の教育にものすごく力を入れましたよね。晩年には私財を投じて、教育や公共事業を奨励援助する財団(財団法人服部報公会)を設立しています。
―― コンプライアンスが重視され、会社のことだけではなく社会のことを考えることが必要な現代に求められる生き方かもしれません。共感する若い読者も多いと思います。
そうだといいですね。本当にいまの時代の人たちに読んでほしいと思います。
楡 周平
にれ・しゅうへい●作家。
1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーとなり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『再生巨流』『プラチナタウン』『修羅の宴』『レイク・クローバー』『象の墓場』『スリーパー』『ミッション建国』『砂の王宮』『食王』『ヘルメースの審判』『逆玉に明日はない』等多数。