[今月のエッセイ]
石田三成の復権
宮本武蔵は変な人だった。巌流島の勝利だけは知られていたが、風呂に入らず、全国を放浪して奇行をした。なかには、村人を苦しめているヒヒ退治までしたことになっている。ヒヒ退治というと、岩見重太郎だが。要するに、巌流島と『五輪の書』だけの人だったのだ。五味康祐によれば、武蔵は二人いたことになっているし、司馬遼太郎によれば、吉岡一門
後に、武蔵は強かったのか、という論争が菊池寛と直木三十五の間で行われたが、同席した吉川英治は論争に加わらず、執筆で応じた。そして、吉川「武蔵」が武蔵像を根本から変えてしまうことになり、剣聖・武蔵の伝説は、『バガボンド』でもわかるように、今でも続いている。
坂本龍馬も、また変な人だった。
講談本では幕末の京都を中心にするあちらこちらの揉め事の場に必ずいて、特に何をするわけでもなく、ピストルを見せてうやむやにする、という役回りだったそうだ。鞍馬天狗みたいな人だったわけである。
薩長同盟も船中八策も彼の発想だったという証拠はない。薩長同盟の現場に龍馬がいたのは、裏書き署名があるから事実だろうが、「関係した」のと「発想した」のはまったくちがう。
船中八策については、勝海舟や横井
彼を変えたのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』である。「龍馬」ではなく、「竜馬」であるのは、「小説だからね」という作者の意図がここに込められているはずだ。
このあとがきで、司馬遼太郎は、勝海舟の『氷川清話』を参考にした、と書いている。「薩長同盟も船中八策も龍馬がやったことさ。(実はわしがやらせたのだが)」(かっこ内、私の妄想)という勝発言から発想したようだ。『氷川清話』は、晩年の勝家を訪れた人の聞き書きだそうだが、勝が
ところが、この『竜馬がゆく』が実におおきな誤解を招いた。
面白すぎたのである。そして、司馬遼太郎のフィクションを歴史書として認識してしまう、という読者が大量に発生して、収拾のつかぬことになってしまったのである。
いかん。石田三成の話であった。
三成は、日光に
三成の行動が正しかったら、神としての家康の名前に傷がついてしまうではないか。
御用学者の言い分は正しい部分も多いのだろうが、それだけの男が家康相手に関ヶ原という大芝居の絵を描けるものだろうか。
三成の実像について書かれて大ヒットした作品は書かれていない。三成にとっての吉川英治も司馬遼太郎も現れていない。吉川
さて、余談というかIFというか妄想というか、もし松尾山の小早川秀秋が軍扇を向ける方向を間違えて、小早川軍が東軍の家康陣に突入していたらどうなっていたか。
家康本陣の背後の南宮山の吉川勢も呼応せざるを得ず、家康陣は包囲されて壊滅ということになったかもしれない。
では、そのあと石田三成はどういう政策をしただろうか。
東国は上杉に任せ、西国は毛利に任せ、そのバランスのなかで豊臣秀頼の成長をひたすら待つということになったのだろうか。
問題は、三成が豊臣家に真の忠誠を誓っていたか、それとも自己の立場を正当化するために豊臣家を利用していただけなのか、である。それがわからないから、残念ながらこの先は書きようがない。
ただ、石田三成が日本の舵を取っていたなら、家康の農本主義などはとらずに、貿易による重商主義をとっていたはずである。
フランスのコルベールが実施し、日本では田沼
石田三成復権に対する、ささやかな一助になってくれれば、という希望をこめて編ませていただいた。
山田裕樹
やまだ・ひろき● 元編集者。
1953年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、集英社に入社。集英社文庫編集長、小説すばる編集長、文芸編集部部長、集英社クリエイティブ取締役を歴任。北方謙三「大水滸伝」シリーズ等のヒット作を担当した。
『智に働けば 石田三成像に迫る十の短編』
中島らも、松本匡代、南條範夫、五味康祐、火坂雅志、吉川永青、伊東 潤、安部龍太郎、矢野 隆、岩井三四二 著/山田裕樹 編
集英社文庫・発売中
定価 858円(税込)