[今月のエッセイ]
縁もゆかりもない街で
小説家になって十二年。東京でデビューして、直後に静岡県の
伊豆では、デビュー前に勝手にイメージしていた小説家のような生活をしていた。家からほとんど出ず、気分転換は歩いて一分の海を眺めることくらいで、あとはひたすら書き続けるという毎日だ。
その日常に不満はなかった。コンスタントに作品を発表できたし、評価のついてきたものもある。小説家としての自分の土台を作ってくれた六年であったのは間違いないが、このやり方が100%正しいという確信は持てなかった。
一人娘の卒園のタイミングで移住した松山では、伊豆とはまったく違うやり方をしてみた。つまりは家に籠もらず、可能な限り表に出て、本と映画がほとんどだったインプットの手段をさらに人にまで広げ、地方都市という未知の土地をアウトプットの舞台にもしてみたかった。
作品のためになると思えばテレビにも出たし、同じ理由からラジオ番組も持たせてもらった。
そうした中でもっとも労力を要し、かつ挑戦的だったのが、地元の新聞社、そして地元出身の絵本作家・かのうかりんさんと手を組み、毎週土曜に一面まるまる使って連載した『かなしきデブ猫ちゃん』という童話のプロジェクトだ。
そもそもは別件で松山に来ていた集英社の担当に飼いネコについて話していたのがきっかけだ。
「太ったネコが愛媛を旅するだけの絵本ってどうですかね?」
そう何気なく提案し、絵本の意義のようなものをペラペラとまくし立てると、編集者は思いのほか良い反応を見せてくれた。
そして「早速会社に提案してみまーす」と言ってくれた彼女をあわてて止めたのは、本当にやるのならまずは『愛媛新聞』を巻き込むべきだと考え直したからだ。
「デブ猫“マル”が愛媛を旅する物語」
文字にするとこれだけのことに、たくさんの思いを込めた。とくに声高に伝えてきたのは、「二十年後の成人式に出る愛媛の若者が全員知っている物語」。〈文学のまち〉を標榜していながら、みんな『坊っちゃん』さえたいして読んでいないという不満から出てきた思いだ。〈文学のまち〉作りに積極的に加担してみたかった。
その理想にはほど遠いし、もちろんまだまだ満足もしていないが、半年に及んだ連載を終え、実際に絵本の出版にこぎ着け、初版八千部という大きな数字をほぼ県内のみで売り切り、さらに五千部もの重版をかけられたことは関係者全員の大きな自信になった。
西日本豪雨の被災地を中心に小学校での読み聞かせ会が数多く開催され、かりんさんの原画展の引き合いもたくさんあった。愛媛銀行のデブ猫ちゃんキャッシュカードや伊予鉄道とのコラボ商品、
でも、僕たちが何より勇気づけられ、わずかだとしても成功の気配を感じられたのは、やはり愛媛の子どもに受け入れられたことだった。「夏休みにお母さんと二人で“マル”と同じ旅をしてきました」「自分の住んでいる街をはじめて知った気がしました」という母娘の写真つきの手紙は、まるで一冊の冒険譚のようで胸が躍った。
部数でもお金でも測れない(そもそもビックリするほど儲かってはいないですが……)喜びが、今回の企画には想像を超えて多かった。
その『かなしきデブ猫ちゃん』を文庫にしたいというのは、ずっと抱いていた願いだった。
理由は二つある。
・いまは愛媛県内で完結してしまっている物語を、日本中、世界中に広げたい。『デブ猫ちゃん』の文庫本や翻訳版を持った人が愛媛を旅している未来を夢想している。
・デブ猫“マル”に日本中を巡らせたい。愛媛版を成功させて、次の地方紙とコラボしたい。集英社文庫に47都道府県シリーズ並べたいし、あわよくばそれぞれ現地の新聞で『デブ猫ちゃん ルーツを求めてペルシャを歩く』や『デブ猫ちゃん ブロードウェイでキャッツを踊る』を連載して、文庫に入れることまで目論んでいる。
…… などとここまで浮ついたことばかり書いてきたが、その道のりがいかに険しいかを僕は誰よりも知っている。ここに至るまで、本当に、本当に、本当に大変な思いをしてきた。自分史上一番カワイイものを書いていたはずなのに、自分史上もっともイライラし続けた。たとえば……というところで、残念ながら紙幅が尽きた。
いつか集英社新書で『ドキュメント「かなしきデブ猫ちゃん」』を、あるいは『愛媛ぎらい』を書かせてほしい。それも含め、すべての夢は最初の文庫にかかっている。
なので、みなさま。『かなしきデブ猫ちゃん』をどうぞ可愛がってください! 千里の道の、二歩目です。
早見和真
はやみ・かずまさ●作家。
1977年神奈川県生まれ。2008年『ひゃくはち』で小説家デビュー。同書は映画化されるなど話題を集める。著書に『イノセント・デイズ』『6 シックス』『95』『小説王』『店長がバカすぎて』『ザ・ロイヤルファミリー』(JRA賞馬事文化賞、山本周五郎賞)等。