[今月のエッセイ]
そして、奈落の底へ
わたしがこれまでに書いた作品の主人公(と、しばしばその周囲の人間たち)は、ほとんど例外なく窮地に陥ります。
ただ「窮地」といっても、高層ビルから飛び降りる腕利きのスパイとか、自らカーチェイスを繰り広げる国家元首などの「非日常的スーパーヒーロー」の登場は皆無です。
さっきまでごく普通の日常を送っていた人物が、ふと気がつけば事件に巻き込まれていて、しかもどんどん事態は悪化し、どつぼにはまり、これでもかというほどさんざんな目にあいます。
「もしも、こんなトラブルがわが身に起きたらどうする? あなたならどうしますか?」
いつもそんなふうに、自分と読者に問いかけながら作品を書いています。
このたび文庫化される、とても思い入れのある『悪寒』の構想も、まずはそこからのスタートでした。
「平凡な小市民的サラリーマンは、どんな過酷な状況までなら耐えられるだろうか―」
考えてみれば、ひどい生みの親です。しかも「夫婦の破局、家庭の崩壊」という観点から掘り下げました。「夫婦間において、決定的に修復できない傷とは何か」もっといえば「配偶者として、それだけは許容できない事態とはどんなものか」そんなことをつきつめて考え、この話は次第に形になっていきました。
以前、わたしは別の作品の登場人物に、こんな意味の発言をさせました。
「不運というのは、ゲリラ的に波状攻撃をしかけてくるか、一個師団で一気に攻めてくる」
今回の、ある意味わたしの分身ともいえる、𠖱えないサラリーマン藤井賢一は、不運の波状攻撃にさらされ、「もうそのぐらいでかんべんしてやってよ」といいたくなるところまで、転がり落ちていきます。
妻を愛し、赦(ゆる)し、励まし、支え合おうと思っていても、立ち止まって考える暇もなくトラブルが続きます。
ちなみに、連載時のタイトルは『驟雨(しゆうう)の森』でした。ざんざん降りが続く暗く深い森に迷い込み、どっちへ進めばよいのかもわからず、全身ずぶ濡れになって彷徨(さまよ)う情けない男をイメージしたものです。
と、ここまで書くと陰惨で救いのない物語のようですが、この主人公の「情けなさ」が救いにもなっていると、わたしは思っています。
これ以上具体的に書くと興を削いでしまいそうなので、このあたりで止めますが、主人公はものすごく可哀そうだし、同情をそそります。しかし、その一方で「この男は基本的にお気楽野郎だから、このぐらいきつい目にあってもしかたない」という、嗜虐(しぎやく)的な気持ちも湧いてくるのではないでしょうか。
作品の核になったものがもうひとつあります。
ずいぶん昔に出会った短歌です。
《冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ》(古今集、巻六、冬歌、清原深養父(きよはらのふかやぶ))
現代語訳が必要なほど難しい歌ではありませんが、あえて書けば「冬だというのに、降る雪がまるで花が舞っているように見える。きっとあの重い雲の向うはもう春なのだろう」というような意味でしょうか。
この歌の世界観を、いつか作品の中で描いてみたいと思っていました。
主人公は、自分の身に何が起きようとしているのか、まだよくわからないうちに、センチメンタルな気分になってこんな歌を思い出します。甘いのです。現実は、「春」どころか「大嵐」が待っています。
本作は、主人公がことあるごとに、自分の甘さに気づかされていく物語でもあります。
ギミックについて少し―。
この作品のひとつの要(かなめ)となっている、ある「しかけ」は、わたしの知る限り〝まだ出会ったことのないトリック〟ではないかと考えています。特殊な道具も使わず、特別な準備も要らず、条件さえ合えば、だれでもいつでも使える「手段」です。
決して悪用しないでください。
それとこれは余録ですが、わたしのほかの作品に登場した人物が、何人か出てきます。既読の方は「あ、あの人だ」と気づくでしょうし、未読でもまったく影響はありません。
さいごにお願いですが、もし書店で見かけたら、ちょっと手にとってみてください。パラパラめくれば、きっと通しで読みたくなります。遠慮なさらずそのままレジへ。
そしてどうぞ、主人公と一緒に奈落の底に落ちてください。
伊岡 瞬
いおか・しゅん●作家。
1960年東京都生まれ。2005年『いつか、虹の向こうへ』(「約束」を改題)で第25回横溝正史ミステリ大賞とテレビ東京賞をW受賞しデビュー。著書に『代償』『もしも俺たちが天使なら』『乙霧村の七人』『ひとりぼっちのあいつ』『痣』『本性』『冷たい檻』等。