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インタビュー/本文を読む

集英社文庫ヘリテージシリーズ
「セレクション 戦争と文学」刊行開始! 全8巻
編集委員=浅田次郎、奥泉光、川村湊、高橋敏夫、成田龍一

[インタビュー]

成田龍一
戦争が「記憶」となった時代の貴重な財産

戦争を知らない、戦後生まれの編集委員による戦争文学全集という画期的な試みで、世界の文学史に誇る記念碑的傑作集として各界から高い評価を受けた「コレクション 戦争×(と)文学」(全二十巻+別巻一)。この度、その中から精選した八冊が、集英社文庫ヘリテージシリーズ「セレクション 戦争と文学」として、新たに登場しました。
第一弾「ヒロシマ・ナガサキ」(発売中)、第二弾「アジア太平洋戦争」(八月二十一日発売)を皮切りに、以降毎月刊行されます(〜二〇二〇年二月)。重厚な「コレクション」から手に取りやすい文庫判へ装いを新たにした「セレクション」は、若い読者へも広がることと思います。そうした新たな読者へ向けて、改めて現代において戦争文学を読むことの意義を、同シリーズの編集委員のお一人で、「ヒロシマ・ナガサキ」の編集・解説を務めた、歴史学者の成田龍一さんに伺いました。

聞き手・構成=増子信一

熱い議論の末に
練り上げられた「コレクション」

─ 「コレクション」の第一回配本「ヒロシマ・ナガサキ」と「アジア太平洋戦争」の二冊が刊行されたのは二〇一一年六月十日。三月十一日の東日本大震災からわずか三カ月後ですが、「ヒロシマ・ナガサキ」の巻には、広島・長崎の被爆体験を綴った小説だけでなく、原発を扱った水上勉さんの「金槌の話」という作品も収められています。

 はい。ちょっとエピソード的な話になりますけれども、アンソロジーを編む編集作業自体は、三月十一日より半年以上前に全部終わっていて、前年の年末には解説も書き上がっていたと思います。そこへ、あの震災が起きたものですから、急遽解説を書き直して、新たな状況を組み込むという、とてもスリリングというか、緊張に満ちた状況でした。

─ それでも収録内容はすでに決まっていたのですから、その時点で原発の問題を重視していたわけですね。

 これは手前みそになりますけれども、「ヒロシマ・ナガサキ」の巻については、編集委員会でもずいぶん議論をし、その結果、まだ三・一一の前でしたが、今編むのなら原爆だけではなく原発についての作品も入れようということになりました。
 その巻だけでなく、一つ一つの巻が編集委員全員の知恵を絞って、長い時間をかけて議論して練り上げたものです。その中で、二〇一〇年という段階で、改めて戦争文学を語るとき、どのような作品を選ぶか、それこそ侃々諤々(かんかんがくがく)といった感じで、議論を戦わせました。そうした熱い議論の結果が、原爆を扱った巻に原発の問題を入れるということにあらわれていると思います。

─ 二十一世紀という現在に戦争を語ることの意味を強く意識されていたわけですね。

 そうですね。私たちが「戦争」といったときに、今までの戦争の形、そこから紡ぎ出された知恵というものも当然必要なのですが、二〇〇一年の「九・一一」以降、それまでとは違った新たな形の戦争が起こっており、そのことを認識する必要があるということです。
 ですから、「ヒロシマ・ナガサキ」の巻を例にとれば、広島・長崎で被爆した作家たちが言葉を紡ぎ出すようにして書かれた作品から、実際に被爆はしなかった同世代の作家たちの作品、さらには、田口ランディさんのように、もっと若い世代の原爆に対する考えも含まれている。それから、広島・長崎の原爆に続いて起こったもう一つの出来事として、ビキニ(マーシャル諸島)での第五福竜丸の被曝があります。その第五福竜丸の船員を主人公にした橋爪健さんの「死の灰は天を覆う」もこの中に収めています。そして原発の作品も入れなければならない。そうした形で全体の構成をつくりました。

─ 韓国人被爆者を主題にした金在南さんの「暗やみの夕顔」も収められています。

 被爆をしたのは日本国籍を持つ日本人だけではないということですね。小田実さんの「『三千軍兵』の墓」は、マーシャル諸島の水爆実験といったとき、被曝したミクロネシアの人々のことを忘れてはいけない、というメッセージを込めた作品です。戦争の経験をできるだけ多様に考えることができるように編まれています。

現代において
「戦争文学」が持つ意味とは

─ 戦争文学というと、それまでは戦争を体験した人が書いた文学という印象が強かったのですが、二〇一〇年時点で、敗戦から六十五年経過した日本において、「戦争文学」の全集を編むということは、当然新たな意味が問われたわけですね。

 それまでの戦争文学全集、あるいは戦争文学アンソロジーは、戦争経験世代が中心となって選んだものがほとんどでした。そのときの「戦争」というのは、日清・日露戦争から始まって日中戦争、そしてアジア太平洋戦争、いわば「近代」の戦争が中心となる戦争文学でした。一方、「コレクション 戦争×(と)文学」では、それ以降の朝鮮戦争、ベトナム戦争、冷戦から「九・一一」という「現代」の戦争をも視野に入れました。それだけでなく、「コレクション」では満洲、朝鮮・樺太、台湾・南方、広島・長崎、沖縄といった「地域編」、軍隊と人間、死者、女性といった「テーマ編」を組み合わせて、戦争文学を幅広く捉えたことが特徴といえるでしょう。
 そうした大きな構えの「コレクション」の中から、今回改めて八巻が選び出されたわけですが、そのセレクションのラインナップを見ると、やはり三・一一後の状況が影響しているように思われます。三・一一以降、この八年の間に、大震災当初の緊張関係が不安に変わってきている。この先どこへ行くのか見えないといった混迷した状況の中でポピュリズムの動きがあらわれてきたり、あるいは、米朝、米中関係をはじめとする国際関係が変化している。
 そういう先の見えない状況の中で、もしかすると新たな戦争が始まるかもしれないという不安も大きく立ち上がってきています。そのときに、この八冊のセレクションを手がかりとして、戦争ということをもう一度考えてみる。そういうきっかけになるよう、大いに期待しています。

─ 戦争文学というと、戦場や戦闘場面を思い浮かべがちですが、今回のセレクションには、「戦時下の青春」、「女性たちの戦争」という、いわゆる銃後の世界も取り上げられています。

 はい。戦争経験といったとき、戦場で戦った兵士たちの経験だけではなくて、女性や子供、あるいは若者というような視点からとらえています。その巻が今回文庫化されるのはとても重要なことでしょう。
 それから、「日中戦争」、「アジア太平洋戦争」という、いってみれば戦争認識の原点をつくり出す核になるもの、さらに、九・一一という新たな戦争の形態を象徴する「9・11変容する戦争」、そしてSFや寓話などから戦争のリアリティを探る「イマジネーションの戦争」といった多様な視点が組み込まれています。

─ 「9・11変容する戦争」には、リービ英雄さんとシリン・ネザマフィさんの日本語で書かれた作品が入っています。

 この巻では、今までとは異なる新たな戦争の登場を扱います。リービ英雄さんやネザマフィさんのような、他の文化経験を踏まえた作品や、平野啓一郎さんや島田雅彦さんのような、日本の状況を掘り下げ、戦争に直面した小説も入っている。一つの巻の中にいろいろな工夫がなされていると思います。
 先頃浅田次郎さんの『帰郷』が文庫になりましたが、浅田さんのあの作品が、アジア太平洋戦争に関するたくさんの小説の中でどのような位置にあるのかということも、「アジア太平洋戦争」の巻の中に入っている他の作品と読み合わせることで見えてくる。
 あるいは、『送り火』で芥川賞を受賞した高橋弘希さんの『指の骨』は、発表直後から大岡昇平の『野火』の影響をいわれましたが、実際に「アジア太平洋戦争」の巻を読んで、高橋さんの本を読むと、ああ、こういう蓄積や流れの上に高橋さんの作品があるのだということがわかる。
 そのように、戦争を描いた個々の作品を見るときに、このアンソロジーと照らし合わせてみると、こういう特徴を持っているなということを読み取り得るし、ぜひ読み取ってほしいと思うのですね。このシリーズ自体が一つの参照系、参照軸になるという点ではとても重要な意味があると思います。

「記憶」で戦争を
語ることの危うさ

 今回、こんな図を作ってみました(上図)。戦争体験、戦争経験ということを考えた場合に、「体験」の要素と「証言」の要素と「記憶」の要素、これらは三位一体であるわけですが、戦後すぐのころは、それぞれの体験の要素、この場合は、被害の立場からの要素が強く出されました。それが一九七〇年ごろになると、戦争を知らない世代が社会に多く登場してくるので、そういう世代に対して、自分の戦争の体験というのはこういうものだったという証言の要素が強くなります。この期の特徴は、被害から加害の要素が強く出たことです。
 そして、九〇年以降になると、斎藤美奈子さんがいうところの「戦後第二世代」が登場します。つまり、親が戦争体験をしている世代を第一世代とすると、第二世代は戦争を経験している身近な人が祖父母という世代ですね。その人たちが大きな比重を占めてくると、戦争の当事者が少なくなって、戦争が記憶の問題として語られるようになる。ここでは、「被害ゆえの加害」「加害ゆえの被害」という把握がされます。つまり、それ以前のように被害/加害とすぱっと分けることが難しく、戦争の被害/加害に対して両義的な見方がなされるようになってきたという認識です。
 今はそうした記憶の次元に入っているのですが、その場合には誰もが記憶を通じて戦争の当事者になっていく。そうすると、これまで戦争がどのように語られてきたか、また戦争文学が新たなコンテクストの中に置かれていきます。

─ ただ、体験から遊離した記憶の危うさというのも出てくるのではないでしょうか。

 そうですね。記憶の時代においては、当事者が持っている戦争体験の絶対的な重み、それにもとづく基準に代わって、その体験の記憶をみんなで分かち合い分有することになる。さっきいった誰もが戦争の当事者になるというのは、そういうことなのですが、そこではよい意味でも、困った意味でも事実なるものが参照系にならない。事実に照らすことができないということは、とんでもない発言やいいかげんな発言、つまり、歴史修正主義やフェイクのようなものが出てくる可能性もあるわけですね。
 その場合、どういう記憶として戦争の問題を語り続けていくのかということが真剣に問われる。つまり、記憶の第二バージョンに入っていくということになります。記憶の第二バージョンに入っていったときに、これまでどういうことが語られていたかということがますます重要になってきます。いいかげんなことを許さないような語り方を考えなければならない、ということです。今はそういう時期に入り込んでいるのだと思います。

─ 九〇年ぐらいから始まった「記憶」の時代がさらに変容して第二バージョンに入っているということですが、きちっと検証すべきものを土台にして語られないと、本当に方向を見失っていきますね。

 そのとおりです。言い換えれば、フィクションの中の戦争がどこまでリアリティを踏まえているのかということにもなりますね。戦後第一世代というのは親たちの話を聞いていますから、まだ戦争というものがどういうものであるのかを親との葛藤を通じて持っている。ところが戦後第二世代になると、文化的記憶、つまりはじめから小説や映画、あるいはゲームなどによって戦争というものはこういうものだという情報が与えられている。ところがというか、したがってというか、彼らには戦場や銃後というものに対するリアリティがない。その意味でも、戦争文学という形でのこれまでの過去の蓄積をいかに受容していくのか。その真価が問われてくるだろうということです。
 もう一つ、戦争の記憶という段階に入っていったときには、何を記憶するかという選択、別の言い方をすれば忘却という問題が出てくる。体験の時代には、いろんな人たちがみんな経験していますから、私はこんな体験をした、自分の体験はこうだとお互いにいい合って、その中から膨大な体験の話や証言が出てくる。そのことによって、戦争という共通の経験を幅広くみんなでチェックし合う、お互いに確かめ合うということができたのですが、記憶の段階に入ってくると、そうしたチェック機能が働かなくなるという局面も出てくる。
 今問題になっているたとえば、慰安婦の問題、あるいは徴用工の問題も、そうした変化を踏まえた中で議論されていかなければならないでしょう。今回の「セレクション 戦争と文学」は、そういうことを確かめていく一つの重要な財産として活用してもらえるとうれしいですね。

成田龍一

なりた・りゅういち●歴史学者、日本女子大学人間社会学部教授。
1951年大阪府生まれ。専門は日本近現代史。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。著書に『近現代日本史と歴史学─書き替えられてきた過去』『大正デモクラシー』『「戦後」はいかに語られるか』『近現代日本史との対話』等多数。

第1弾
『ヒロシマ・ナガサキ』

集英社文庫・好評発売中

本体1,700円+税

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第2弾
『アジア太平洋戦争』

集英社文庫・8月21日発売

本体1,700円+税

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第3弾
『9・11変容する戦争』

9月20日発売予定

第4弾
『女性たちの戦争』

10月18日発売予定

第5弾
『日中戦争』

11月20日発売予定

第6弾
『イマジネーションの戦争』

12月19日発売予定

第7弾
『戦時下の青春』

2020年1月17日発売予定

第8弾
『オキナワ 終わらぬ戦争』

2020年2月20日発売予定

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