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バスケットがアイデンティティに
アメリカで追い詰められ悟った己の核

♯1 第1期生 並里 成

まるで最初から決まっていたかのように運命に導かれ、
スラムダンク奨学金第1期生になった並里成。
前例のなかった初めての試みに真正面から立ち向かい、
アメリカの地で苦しみも楽しみもすべてさらけ出した。
その後に続く奨学生たちの模範を示した開拓者は、
自分とアメリカと、バスケットの間に何を見出したのか。

写真は取材当時(2019年12月)のものです。
撮影/伊藤亮

並里 成 なみざと・なりと
1989年8月7日生まれ、沖縄県出身。福岡第一高校1年生時にウインターカップで優勝し、ベスト5に選出される。卒業後、スラムダンク奨学金第1期生として、2008年3月にサウスケントスクールに留学。09年に卒業し、帰国後は、リンク栃木ブレックス(JBL)、琉球ゴールデンキングス(bjリーグ)、大阪エヴェッサ(bjリーグ)、滋賀レイクスターズ(現滋賀レイクス・Bリーグ)に所属。18年に琉球(Bリーグ)に復帰。22年より群馬クレインサンダーズ(Bリーグ)に所属。ポイントガード。172cm、72kg。

パーフェクトなタイミング

『月刊バスケットボール』にあった一片の広告。何の変哲もない限られた枠のモノクロ広告だったと記憶している。しかし、当時高校2年生の並里成は「運命だ」と感じた。見せてくれたのは福岡第一ふくおかだいいち高校の井手口孝いでぐちたかし監督だ。
「僕がアメリカに挑戦したい思いでいることを井手口先生は知っていて、ずっと動いてくださっていました。面と向かっては言われないんですけど、裏で『先生は本当にお前のこと考えてくれてるぞ』とか『アメリカへの道を探してくれてるぞ』という話は聞いていたので。そうしたらある日、先生が『これ、応募してみるか』と見せてくれたんです」
 井手口監督が差し出したページにあったのは、スラムダンク奨学金第1回奨学生募集の広告だった。
「たしか高校3年に進級する前の2月くらいでした。ちょうど僕が卒業する年から始まるということで、先生が見つけてくださったんです。見てすぐ『はい、挑戦してみたいです』と返事をしたら、すぐ動いてくださって」
 並里成は沖縄おきなわ市コザで生まれ育った。兄の影響で、幼稚園の頃には既にバスケットボールをついていた。同地域には米軍の嘉手納かでな基地がある。並里が幼少期の頃は、地元の人が「6チャンネル」と呼ぶアメリカ軍放送網(AFN)をテレビで視聴できた。
「6チャンネルで中継されるNBAを、テレビ越しでありながら身近に感じて育ちました。だから小学校低学年くらいにはNBAに憧れてましたね。これは僕に限った話ではなく、同級生もみんなそうで、憧れの選手のマネをしたりして、NBAへの夢をよく話してました」
 バスケットに夢中になる環境がそろっていた中で、並里はその実力をぐんぐんと伸ばす。
「バスケットへの愛は誰にも負けなかったと思います。一番になりたい、上手くなりたい向上心で小学生の頃は24時間365日、ずっとバスケットのことだけを考えて、身体のメンテナンスもしてました。正直、中学生の時は思春期でもあり、プライベートを削ってまでもバスケットはしていなかったんですけど」
 コザ中学校3年時に全国中学校バスケットボール大会でベスト8。複数の高校から誘いを受けた中で、福岡県にある全国屈指の強豪・福岡第一高校へ進学することを決意する。
「井手口先生が2、3回沖縄に足を運んでくださった熱意と、チームの試合をDVDで見て。あと当時、沖縄で九州大会があったのですが、そこで生観戦して団結力を感じさせるチームカラーに惹かれました。そして最後の決め手は、留学生がいたことです」
 将来NBAでプレーするならば、早いうちから海外の選手とともにプレーした方が得策だろう、という判断だった。
「自分の夢はアメリカでバスケットをすること。中学生の時は沖縄を代表して県外か海外に挑戦したいと思い描いていました。そしたら福岡第一高校に声をかけてもらってスムーズにいった。なので、同じように高校を卒業したら今度は海外に出ようと考えていたのですが……」
 並里成には、憧れを憧れのまま終わらすのではなく、実現するために動く行動力があった。そして道筋も考えていた。だが、高校卒業後の具体的な道筋までは考えられなかった。
「それまでは『アメリカに挑戦したい』と口では言っていたものの、コネクションもなく、どうしたらいいのか分からなかったんです。決めていたのは日本の大学には行かずに海外に出よう、ということだけ。でも、そんなタイミングでスラムダンク奨学金設立の話が出て。“井上先生、これからこんなこともやるんだ”と不思議な感覚も覚えつつ、まるで自分のタイミングに合わせて設立されたような気もして。本当にパーフェクトなタイミングでした。だからすごく感謝しているんです」

トライアウトで相対したのは後のNBAプレイヤー

 スラムダンク奨学金と出会った時点で、「並里成」の名前は全国区になっていた。強豪・福岡第一高校で1年からポイントガード(※1)としてレギュラーを勝ち取り、いきなり高校バスケット界の頂点を決めるウインターカップ制覇。大会ベスト5にも選ばれた。身長172㎝と上背はないが、類まれなクイックネスを持っていた。当時の映像を見れば一目瞭然だが、抜群のスピードに複雑なフェイントを組み込んだドライブ(※2)に、相手はディフェンスどころか、ファウルすらできない。まさに「手が付けられない」とはこのことだ。一瞬の爆発的なスピードと豊富なイマジネーション。いったい次にどんな技が飛び出すのか予想できないプレースタイルは「ファンタジスタ」と呼ばれるほどだった。
 そしてもう一つ、漲っていたのが自信だ。派手なペネトレイト(※3)やダブルクラッチ(※4)を決めた後に拳で胸を何度も叩きアピールする。
「自信に満ちた表現を、あえてしていたのはあります。そうすることによってさらに自信が増幅され、どんどん調子に乗っていくという。特に高校1年で出たウインターカップは自信になりました。その後もインターハイや国体などで強豪チームと対戦するたびに、相手のプレーを見るじゃないですか。その時に“この選手ならマッチアップしても倒せるな”という感覚が生まれるようになりました」
 ビッグマウスではない。たしかにそう言い切れるほど、当時の高校バスケット界で並里の実力は抜きん出ていた。

並里の苦楽が詰まったサウスケントスクールの体育館。
撮影/スラムダンク奨学金事務局

 そんな実力者が『スラムダンク奨学金』に応募したのだから、書類選考はスムーズに通過した。その後、最終選考として現地でのトライアウトに参加することになる。並里は高校3年になった2007年の10月、アメリカはコネチカット州にある留学先のサウスケントスクールに飛んだ。
 そして最終トライアウトで相対したのが、後にNBAプレイヤーとなるアイザイア・トーマス(2011年サクラメント・キングス入団)だった。
「最終トライアウトの時は、やってみるまで合格する自信はなかったんです。それで実際行ってみたら、アイザイア・トーマスとディオン・ウェイターズ(2012年クリーブランド・キャバリアーズ入団)がいたことをバッチリ覚えています。トライアウトはピックアップゲーム(※5)形式だったのですが、アイザイア・トーマスとは同じポジションだったのでマッチアップすることに。同じサイズの選手で初めて自分よりも上手い選手を目の当たりにして衝撃でした。なので、最初は雰囲気にも慣れず消極的なプレーが続いていたんですが、勝負している相手なのに彼が『もっとシュート打てよ』『どんどんいけよ』などとパッと声をかけてくれた。おかげでトライアウト後半は自分のリズムもつかめたし、合格する手ごたえは得ていました」
 トライアウト終了直後にヘッドコーチから賞賛され、校長先生も視察に訪れ喜んでいる様子だった。「ぜひうちに来てほしい」。「また会えるのを待っているから」。そう声をかけられたことで合格を確信したという。だから合格が通知された時のことは覚えていない。アイザイア・トーマスやディオン・ウェイターズといった、とんでもない実力者といっしょにバスケットができる。既に“次に渡米するのはいつになるのだろう”という方に気持ちが向いていた。

想定通り楽しかったアメリカのバスケット

 見事スラムダンク奨学金第1期生に選ばれた並里成は、高校3年時にウインターカップ準優勝&自身2度目となる大会ベスト5という成績を残して、2008年3月、日本を飛び出した。18歳以下の日本代表に選ばれた時にアメリカ遠征は経験していたが、14が月に及ぶ海外長期留学は初体験となる。

「体育館へ徒歩1分」という距離にあった寮は二人部屋。
撮影/スラムダンク奨学金事務局

「NBAに近いアメリカに行ける。今までは観るだけだったNBAだけど、これから行くサウスケントスクールには、ゆくゆくNBAプレイヤーになる選手がいるだろうから、絶対バスケットが楽しくなる。がんばるぞ! と思いつつ、言葉の壁、文化の違い、日本人一人という環境に不安もありました」
 寮の部屋は二人一部屋。最初は韓国から来た留学生と同部屋だった。彼は普通にアメリカの大学へ進学を希望して、学業のために来ていた。バスケット選手でアジア人は並里ただ一人だったのだ。
「平日はまず朝6時に朝練があった後、8時30分までに朝食や支度を済ませチャペルに集合します。そして9時から授業。昼食もろくに摂らず17時まで授業が詰まっていて、そこから食堂でピザやチキンといった食事をかきこんで、18時から練習。それも1時間くらいで、19時からはホームワークがありました。それが2時間くらい。で、21時から1時間だけがフリー時間。そこで体育館に行けたりするんですけど。でも22時になったらインターネットの回線も全部切られるんです。で、その後、生徒たちがちゃんと部屋にいるかどうか見回りに来るという」
 意外だったのは、練習時間の短さと授業時間の長さ。福岡第一高校でのそれに比べれば、サウスケントスクールでの練習は楽に感じられた。でも、だからこそバスケットがより濃密に、楽しく感じられた。
「やっぱり派手な選手が多くて、自分より大きくて速い選手ばかり。いろいろな部分で劣っている自分がいるのですが、上手い選手をどうやってやっつけるかって考えるのが楽しかったですね」
 欧米に渡った日本人選手は、当初パスを出してもらえないなど、相手にされないという話はよく聞く。並里も同じ目に遭ったが、それは想定内だった。
「最初はバカにされるんです。小さいしアジア人だし。でもシュートを決めたり、ドライブでかわしたり、技を見せるとすごい盛り上がってくれる。それが嬉しくて、無駄にいろんな技を見せていたかもしれません。ハンドリングも普通に抜くのではなくビハインドザバック(※6)したり、レッグスルー(※7)したり、スピン(※8)したり。パスも、しなくてもいいのにノールックパスしたり。でも、それでだんだん認めてもらっている感触がありました。練習後にみんなが寄ってきて『1対1しようぜ』とか『お前のあの技、どうやってやるんだよ』って声をかけてくれるんです」
 そして、深いため息をつきながら言うのだ。
「唯一、楽しいのがバスケットの時間でした……」
 小学生時から抱いていたNBAプレイヤーとなる夢。そこへ一歩一歩近づいている実感があった。バスケットも自分を認めてもらうまでに多少の時間を要したものの、想像通り楽しくてしかたがない。想定外だったのは、学業の方だった。

本当に自分がここにいて正しいのか

「学業はかなり難しかったです。もともとサウスケントスクールは、ハーバード大に進む生徒がいるほどレベルもかなり高かったみたいで。授業の中の一つに単語から教えてもらえる基礎英語のようなものがありましたが、それ以外の数学や歴史といった本格的な授業も全部英語。何を言っているのか全く分からないんです。しかも追い打ちをかけるようにホームワークが出る。ひたすら勉強に追われました」
 授業形態は留学前から把握していた。サウスケントスクールは大学進学に足る学力を身につけるための学校だ。アメリカの大学へ進むためには、大学進学適性共通テスト(SAT)などで一定の成績をおさめなくてはならない。これが、日本では高校までバスケットボール一筋だった並里にとって、高い壁となった。しかも、当たり前だが授業も議論もテストも解答も、すべて英語なのだ。
 言葉の壁は最初から予想していた。しかし実際は、そんな不安を上回る苦しみが待っていた。
「英語に関しては自信がなかったんです。正直、もっとできないと思ってました。でもやらざるを得なかったので、ひたすら勉強しました。勉強、勉強、勉強。でもどんなに勉強しても、授業で言っていることが理解できるようにならないし、そもそも聞き取れない。『いったい、いつになったら……』と絶望的な気分になりました。会話も成り立たないレベル1の自分が、レベル2、3、4……と段階を踏まずいきなりレベル10の中に放り込まれた感じ。沖縄にいる時から英語は身近でしたが、実際に英語圏に入ると全く違ったものになるんです。地域によって発音や言葉の使い方も全然違ってくる。僕が勉強していたのはニューヨーク寄りの英語でしたが、進歩している感触がさっぱり得られませんでした」
 英語に堪能な人からは「最初はどれだけ勉強しても分からない。でも半年くらい経つと、ふとした時に突然聞き取れるようになる。すると質問ができるようになるから、英語力が伸びるのも多少早くなるよ」というアドバイスをもらっていた。その言葉を信じて、ひたすら勉強するしかなかった。

豊かな緑に囲まれたサウスケントスクールのキャンパス。
撮影/スラムダンク奨学金事務局

 サウスケントスクールは1923年に創立された由緒正しき学校である。敷地面積は650エーカー(約80万坪)。この広大な敷地に大学進学を志す若者が180名ほど集う。施設も充実し、キャンパスには瀟洒しょうしゃな雰囲気が漂う。しかし、一歩敷地を出れば延々と林道が続き、買い物をするには数十分も車を走らせなければならない。加えて冬の寒さは厳しく、雪に閉ざされる。まさに、人生をかけて大学進学に専念するためのストイックな閉鎖空間と見ることもできる。
 南国・沖縄出身の並里にとって、コネチカット州の冬はこたえた。
「気候にしても……雪が積もるとやる気が起きない、というのはありました」
 夜22時に外部との接触を断たれ、消灯したキャンパスの暗闇の中で、しんしんと降り積もる雪を感じながら襲ってきた孤独感はいかばかりのものだったか。
「いっぱいいっぱいでした。ストレスも相当溜まっていて。“本当に自分がここにいて正しいのかな”とすら考えるようになっていました」

(この続きは『スラムダンク奨学生インタビュー その先の世界へ』で。)

1 ポイントガード:バックコートからフロントコートへのボール運びや、フォーメーションの指示など、司令塔の役割を果たすポジション。ポジション番号は1番。

2 ドライブ:ドリブルで素早く攻め込むこと。

3 ペネトレイト:瞬間的に加速したドリブルで、ディフェンスの間を突き抜けてゴールに進むこと。

4 ダブルクラッチ:空中で一度シュートモーションに入った手を下げ、逆の手に持ち替えて決める高難度なシュート。

5 ピックアップゲーム:その場にいるメンバーで、即席でチームを作って行うゲームのこと。

6 ビハインドザバック:自分の背中側にボールを通し、逆の手に持ち替えて突破するドリブルテクニック。

7 レッグスルー:股下でボールをバウンドさせ両足の間を通し方向転換するドリブル。

8 スピン:正式名称はスピンムーブ。身体を素早く360度回転させディフェンスをかわすドリブル。

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