[連載]
[第7回]自家用車で国境を越える
私たちが暮らすポルトガルの山奥と、こちらに移るまで二十年以上暮らしたドイツの首都ベルリンは、二千七百キロメートル離れている。二〇一四年にC荘を手に入れてから、移動にはずっと飛行機を使っていたが、この二千七百キロをいつか車で走破したいと、私たちはずっと夢見ていた。車なら飛行機では運べないいろいろなものを持っていけるし、なにより旅そのものが面白そうだ。
二〇一八年の初冬、中古の三菱アウトランダーに布団や味噌や醬油、さらには夫が調達した、私には名前も用途もわからない謎の道具類を詰め込んで、私たちはついに車でポルトガルまで二千七百キロの旅に出発した。以来、いま数えてみたらベルリンとポルトガルを六往復半、通算十三回、車で行き来している。
初回こそドイツから出発したが、いまとなっては逆に住んでいるポルトガルからドイツを訪ねる旅だ。道程は毎回少しずつ違うものの、陸路ではスペインとフランスを経由する以外の選択肢がないため、西ヨーロッパを左下から右上へと斜めに突っ切るおおまかなルートは変わらない。
急いでいるとき以外は、たいてい五日間かけてのんびり旅をする。ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、すべてシェンゲン協定加盟国なので、国境検問はない。通貨もずっとユーロのまま。それでも国をまたぐ旅だと実感するのは、景色も言葉も食べ物も、すべてが移り変わっていくからだ。
C荘からスペイン国境まではわずか二時間半の道のりだ。緑深い山のなかに「ここからスペイン」という標識が立つだけの国境を越えると、やがてどこまでも広がる茶色がかった平野が現れる。無料の高速道路が一本、地平線まで延びている。スペインといえば旅行者に人気なのはアンダルシアやバレンシアといった海沿いの地域。私たちが通過する内陸部のカスティリア(カスティーリャ)地方は知名度が低いが、私には特別な意味を持っている。なにしろ青池保子の漫画『アルカサル―王城―』の舞台となった地なのだ。十代のころからファンで熱心に読んでいたあの壮大な物語の舞台にいま自分がいる。主人公である十四世紀のカスティリア王ドン・ペドロが馬で駆け巡った大地を私も(車で)駆けている。トルデシリャスという町に泊まったときには、ドン・ペドロの息子が生まれた町! と興奮のあまり、登場人物になりきって街路を歩き回った。夫にドン・ペドロの生涯と当時のイベリア半島の政治情勢について延々と解説したものの、歴史好きの夫もさすがに十四世紀のスペインの王様のことは知らず、日本人が漫画から得る豊かな、というよりあまりにニッチな知識に感心しつつも引き気味であった。
やがてトンネルを抜けると、いきなりアルプスを彷彿とさせる緑の山地に出る。バスク地方だ。地名標識にも、すぐには発音できない、見慣れないバスク語が現れる。大昔、私のスペイン初訪問はバスク地方で、ソロ、コルタードといったコーヒーの種類の名前がさっぱりわからず焦ったり、食べ物のおいしさに感動した鮮烈な思い出がある。
イルンの町を抜けていよいよフランスに入ると、今度はボルドー付近まで平らな松林が延々と続く。ガソリン代も飲食費も一気に跳ね上がる。節約しようと有料高速道路を通らずに一般道を走っていたとき、あまりに同じ景色が続いて道に迷ったことがあった。それまで不正確な案内で散々私たちを翻弄したカーナビが「Uターンしてください」と言ったが、夫は「俺は引き返さない」と雄々しく宣言してそのまま
フランスでは、ボルドーを過ぎた後はだいたい一般道を走ることにしている。節約のためでもあるが、それぞれの地方の特色がある小さな村や町を通り、地元の店やカフェに寄るのも大きな楽しみだ。
フランスでもまた、聞き覚えのある地名に興奮する。ベルジュラックを通ったときは、ここはかのシラノの出身地か!となるし、コニャックとは地名なのだと改めて気づく。
ボルドーを抜けるとリムーザン地方、そしてオーベルニュ地方へ。オリーブの木もオレンジの木もなくなり、イベリア半島よりも優しい緑色の、穏やかな丘陵地が続く。ヴォルヴィックという名の町があって、そうか、水も地名なんだな、と感心する。あるとき、ヴォルヴィックでヴォルヴィック水を買おう、と張り切って市街地に入り、雑貨店を訪れた。ところが地元のはずなのにヴォルヴィック水は高価で、仕方なく価格が半分だったエヴィアン水を買って出た。
フランス東部のブルゴーニュ地方まで進むと、今度はディジョンに行きあたる。「ディジョン・マスタードってディジョンのマスタードなんだね!」とまた興奮気味に夫に語りかけ、「なにを言っているのかわからない」と返される。
さて、一方の夫は、大学で鉱物学を専攻したほどの石好きである。地層を見ると興奮するたちだ。私がカスティリア王ドン・ペドロについてまくしたてるように、夫は各地方であちこちの石を指さしながら、地層について、ひいては地球の歴史について語りまくる。同じ場所にいても、自然に目が向く夫と、人の営みに興味のある私で、見ている世界はまったく違うものだと実感する。
おかげでいまでは私も、地元産の石で造られた各地方の家々が、茶色くて荒々しいとか、白くてお洒落、といったふんわりした雰囲気ではなく、石の種類で見分けられるようになった。家といえば、細かい話だが雨戸にも地方ごとに特色がある。ポルトガル中部は秋から春にかけて雨が多く湿度が高いため、窓枠や雨戸はアルミニウム製が一般的だ。しかし私たちが買ったときのC荘は、窓枠も雨戸も玄関ドアもすべてが木製だった。田園地帯風のお洒落な見た目に騙されたが、実際に住んでみると窓枠も雨戸も湿気で変形していてまともに閉まらず、きわめて非実用的だった。フランスの小村をいくつも通って、あのC荘の雨戸と同じ木製の、戸の内側に木材を「Z」の形に打ち付けたデザインのものが家々に取り付けられているのを見たときに、なぜ近隣でC荘の窓枠と雨戸だけが木製だったのかがようやくわかった。長らく空き家だったC荘を買って改修し、私たちに売ったのはフランス人のP夫妻。夫妻はポルトガルの冬の湿気を知らずに、母国のものと同じ窓枠と雨戸をC荘に取り付けたのだ。
さて、旅の楽しみといえばやはり宿と食事だろう。どの旅でも一日に進む距離はそれほど違わないので、宿泊する地方もだいたい決まってくる。その日の午後に、現在地と、あとどれだけ進めそうかを考えて、インターネットで宿を探す。スペインでは一階がレストランで上階が部屋という伝統的な宿に泊まることが多い。一階のレストランの手前や隣のスペースはたいていバー兼カフェになっていて、カウンターのショーケースにはとりどりのタパスが並ぶ。店のなかはたいがい薄暗い。店内に窓がないことが多いからか、またはイベリア半島独特の、暗色の木を使った内装や家具のせいでそう感じるのか。伝統的なタイル張りの壁とも相まって、そんな店は狙って作ったスタイリッシュな空間ではなく、どこかくたびれた感じ、なつかしい雰囲気があって、妙に落ち着く。
それにもちろん、タパスは旅のハイライトだ。美食で有名なバスク地方は言うまでもないが、カスティリア地方の場末感漂う店にさえ、驚くほどおいしいとりどりのタパスが置かれている。内陸であるにもかかわらず、肉類のみならず魚介類も美味なのが嬉しい。スペインは夕食の時間が遅く、特に田舎ではレストランが開くのがなんと夜九時ということもある。だから夕方になると、近所の人たちがバーに集まってきて、タパスをつまみつつビールやワインを飲んで夕食の時間を待つ。そんなスペインの夕方の「地域ごと
バスク地方を抜けてフランスに入ったところで、私にとっての食の楽しみはほぼ終了だ。まず、物価が高いフランスでは値段にひるんで気軽にレストランに入れない。だからといって
フランスで興味深いのは、私にとっては食べ物よりも宿だ。特に中西部のリムーザン地方。というのも、このあたりにはなぜか英国人経営の小規模宿が多いのだ。美しい田園地帯にたたずむ、石造りの古い農家などを趣味良く改装したそんな宿に泊まるのは心躍る体験である。そんないかにもフランスの田舎風の宿のひとつに初めて泊まったときのこと、私たちのフランス語が不自由だとわかったとたん、オーナーが流ちょうな英語を話し出したので驚いた。フランスなまりの欠片もない綺麗なイギリス英語だった。後から部屋で夫に「あの人、英語すごくうまいね」と言ったら、「そりゃイギリス人だからね」と返された。オーナーの流ちょうすぎるイギリス英語での自己紹介が私には理解できていなかったのだ。
次の旅でも、その次の旅でも、リムーザン地方で泊まった宿のオーナーはイギリス人だった。その後、ベルギー人にもオランダ人にも当たったことがある。内陸部のリムーザン地方は、プロヴァンスやノルマンディのような人気の保養地でないためか、調べてみたら(不動産広告の検索閲覧は私の数少ない趣味のひとつだ)田舎の農家や一軒家が比較的手ごろな価格で手に入るようだった。フランス随一ではなくとも、イギリスに比べればずっと温暖な気候もあって、移住してくる人が多いのだろうか。ちなみにどのイギリス人宿でも、朝食はイングリッシュ・ブレックファストではなく、コーヒーにバゲットとジャムのコンティネンタル風だった。
もちろん、旅の思い出は楽しいものばかりではない。二〇二一年九月から翌年三月までの半年間で、ポルトガル―ベルリン間を二往復した。ポルトガルに居を移すことを決めて、一年近く家賃を払うだけで住んでいなかったベルリンのアパートを引き払ったときのことだ。
スペインからフランスに入って、初めてレストランでワクチンパスか陰性証明書を見せろと言われたときの、すうっと血の気が引くような感覚は忘れられない。接種歴によって人が区別される世界など、私にとってはディストピア小説のなかにしか存在しないはずのものだった。
一年で最も寒くて暗い季節、アパートから持ち出したわずかなものを、自動車の後部に接続して牽引するトレーラーに積み込んで、非接種者はテロリストだ、社会から締め出せと政治家、著名人、マスコミが叫ぶ声が日々大きくヒステリックになっていくドイツを逃げるように出たときの心細さ。そんなはずはないのに、私の記憶のなかのあの旅では、ずっと暗い道を走っていた。
トレーラーを引っ張っていたうえ雪が降っていたので、フランスでも高速道路を使った。私たちのほかに客がいないうら寂しいホテルは暖房の利きが悪く、車に積んでいた羽毛布団を部屋に持ち込んで眠った。
スペインでついに、なにを見せろとも言われることなくレストランに入り、ビールを頼んだときの解放感。とたんに呼吸が楽になったのを憶えている。店内では、なんの集まりなのか女性ばかり大人数がテーブルを囲んで、大声で陽気におしゃべりしていた。やがて興が乗りすぎて歌い出した彼女たちを店の片隅で眺めながら、ごく普通の日常が営まれる世界に帰ってきたという安堵感で涙が出てきた。
そんな記憶も手伝って、旅行中の私の気分は、イベリア半島のこちら側と向こう側とで大きく変わる。ポルトガルから出発するときは、スペインを出てフランスに入ると「いよいよ外国に来たぞ」と気を引き締め、逆にドイツからポルトガルに向かうときには、スペインに入ると、ここまで来れば大丈夫だ、と、なにが大丈夫なのかわからないが、とにかくほっとするのだ。
ところで、ここまでスペインとフランスについては散々書いておいて、ポルトガルとドイツの旅路には触れていないことに気づいた。C荘からスペイン国境まではたった二時間半なので、ポルトガルの旅は気づけば終わっている。一方ドイツは南西部から北東部のベルリンまで、広い国をほぼ斜めに突っ切る長い道のりではあるのだが、長年暮らしたためか、ドイツにはどうも旅情を感じないのである。アウトバーンを走るばかりで景色を堪能することもないし、たいていは宿に泊まらず、ヴェストファレン州にある夫の実家に直行するせいもあるだろう。
ただ、ドイツ文学の翻訳者なので、言葉の点ではドイツに入ると途端に気が楽になる。暮らしているポルトガルでも言葉はまだまだおぼつかないし、スペインではその不自由なポルトガル語でぎりぎりコミュニケーションを取る。もともと下手なポルトガル語をスペイン語風に発音して話すと、相手には「衝撃的に下手なスペイン語」に聞こえるのか、とにかくなんとか通じるのだ。相手のスペイン語は想像力を目いっぱい働かせて理解する(むしろ妄想するに近い)。そしてフランスでは最初から努力を放棄して、挨拶以外は、フランス語ができる夫の横に無言でたたずむのみだ。ところがドイツに入ったとたん、頭のなかでの事前準備なしでも意思疎通が可能になる。テレビもラジオも、レストランの隣の席の会話まで突然わかるようになり、世界の解像度がぐっと上がる。
ただ、だからこそドイツの嫌な面、暗い面がよりくっきりと見えてしまうのも事実だ。アウトバーンのサービスエリアで、フランスと同様ばか高いコーヒーとサンドウィッチをおっかなびっくり買ったら、レシートに計算間違いを見つけた。ポルトガルでなら、なんと説明するかまずは頭のなかでシミュレーションするところだが、ここはドイツ、さっとレシートをつかんでレジへ向かった。ところが間違いを指摘した私にレジ係が放った最初の言葉は「私のせいじゃない!」 そうだ、ここはなにがなんでも己の非を認めない人たちの国だった。言葉はできても、このマインドに対する心の準備を怠っていたことに気づく。レジ係の延々と続く言い訳と責任転嫁を聞いているうちに、旅の高揚感は跡形もなく消え去り、暮らしていたおよそ二十年間でなじんだ日常感覚が戻ってくるのである。
イラストレーション=オカヤイヅミ
浅井晶子
あさい・しょうこ●翻訳家。
1973年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年トーマス・ブルスィヒ『太陽通り』でマックス・ダウテンダイ翻訳賞、2021年ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』で日本翻訳家協会賞翻訳特別賞受賞。訳書にイリヤ・トロヤノフ『世界収集家』、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』『誕生日パーティー』、ユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』ほか多数。