[本を読む]
誰かを好きになれ、という呪縛
「あなたのライフプランを考えてみましょう」。そんな学校の課題で期待されているのは、異性と恋愛して結婚して夫婦生活を送る、そのような未来だ。それ以外の生き方は、初めから想定されていないことが多い。家を借りるにも、社会保険に入るにも、一対一の異性愛的な関係は自明のものとされている。なぜ、このような偏った人間関係だけが、私たちの当たり前の座に君臨し続けてきたのか。
それを説明するひとつの鍵概念が、「強制的性愛」だ。聴き馴染みのない読者も多いかもしれない。誰かに性的に惹かれるのは当たり前、という思い込みや、それと結託した規範のことだ。誰かを、性的に好きになるべきだ。性的な関心を誰にも抱かないなんて、心が冷たい人なのでは。いつかきっと、いい人に会えるよ。日常生活に張り巡らされたこの前提と偏見の底には、強制的性愛がある。
その前提に苦しめられてきた人たちは、数えきれないくらいいる。いわゆる「非モテ」や、独身の人。同性愛の人。そして本書が着目する、アロマンティックやアセクシュアルの人たちだ。恋愛や性愛は、誰にとっても必要なもの? どうしてそうなの? それに、そもそも「好き」ってなんだろう。あるいは「性」や「恋愛」とは?
こうしたラディカルな問いを立てた人たちは、コミュニティを作り、新しい言葉を生み出してきた。英語圏でも日本語圏でも、それぞれの歴史と議論の積み重ねが存在する。もちろん、そうした言葉ができる以前から、恋愛や性愛などを押し付ける風潮に疑問を抱く人たちはいたのだから、そうした「先輩」たちとの繫がりも重要だ。本書『アセクシュアルアロマンティック入門』には、そうした歴史と言葉の広がりが、確かに捉えられている。ただの用語解説とは程遠い、アセクシュアルやアロマンティックの人々の生きた思考と、人生の格闘の記録を垣間見ることができる。
本書の射程は広い。わずか1%の性的マイノリティの話、ではない。問われているのは、この社会の規範である。「強制的性愛」以外にも、さまざまな問題的な規範が、今日も私たちの「性」を取り囲んでいる。本書を開いて、あなたの当たり前を問うてみてほしい。
高井ゆと里
たかい・ゆとり● 倫理学者、群馬大学准教授