[今月のエッセイ]
幸運な一冊との出会い
二〇一一年四月一日、私は三陸の海辺に佇んで、太平洋の大海原を見つめていた。東日本大震災の発生から、ちょうど三週間が経っていた。震災直後の底冷えする寒さを忘れてしまったような、春の陽射しが心地よい日だった。目の前では、雲ひとつない真っ青な空の下、穏やかな海がきらきらと輝いている。実際、あれだけ穏やかな海を見たことは、あとにも先にもない気がする。
しかし、海から視線を逸らして振り返った先には、なにもなかった。いや、あったはずのものが消えていた。海がすべてを持ち去っていた。そして、周囲には土の匂いが充満していた。波打ち際にいるにもかかわらず、磯の匂いはまったくしない。津波が陸の表層をはぎ取り、
私が佇んでいた場所は、宮城県
あたり一面に立ち込める土の匂いから逃げるようにして車に乗り込み、瓦礫の合間を縫って辿り着いた気仙沼の街は壊れていた。内陸側の無傷の市街地と、津波に吞まれたかつての街並みの、あまりの落差に愕然とした。沿岸被災地の瓦礫だらけの光景は、それまでもニュースでさんざん見ていた。だが、カメラのフレームで切り取られた映像を見るのと、周囲三百六十度が破壊され尽くした真っ只中に身を置くのとでは、まるで違っていた。「言葉を失う」とはどういうことか、その本当の意味を初めて知った。いや、意味などない。状態があるだけだ。それまで、自分の小説でなんと安易にこの言葉を使っていたのかと恥じ入った。そしてこの日から、小説を読めなくなった。次いで、新しい小説はもう書けないだろうと思った。この現実を前にして小説などあり得ないと……。
実は震災の少し前、とある編集者に、次はミステリーを書いてみてはどうですか、とリクエストされていた。内外問わず、ミステリーは好きなジャンルで、自分でもそろそろ挑戦してみようかと考えていたので、二つ返事で同意した。その直後のこれである。周囲に人の死が累々と折り重なり、自衛隊員が瓦礫を棒で突き刺しながら遺体の捜索を続けているなかで、人が死ぬことから始まるミステリーなど書けるわけがないではないか……。
いまさらながら、あの当時の同業者たちはどうだったのだろうと思う。おそらく人それぞれだったのだろうが、私の場合は右に述べた通りだった。
人生を左右するような大きな影響を、小説が人に与えることはほとんどない、と私は常々思っている。小説はそれほど尊大なものではない。もっと遠慮深く、ささやかな存在だ。だから、あったとしても、一生のうちでせいぜい一冊か二冊ではないか。違う言い方をすれば、読書人生の中で一冊でもそういう小説に出会えたら幸運だと思う。
その一冊に、東日本大震災から半年近く経ったころに、偶然出会うことができた。佐藤泰志の『海炭市叙景』がそれである。村上春樹と同じ一九四九年生まれの佐藤泰志は、五度、芥川賞候補になりつつも受賞には至らず、一九九〇年に四十一歳の若さで妻子を残して自死している。「海炭市」とは、佐藤泰志が生まれ育った故郷、函館市をモデルにした架空の街のことだ。『海炭市叙景』は、その海炭市で暮らす、ごく普通の人々の日常を描いた短編集で、ふだんなら自分から手を伸ばすことのない純文学作品である。だが、震災後、初めて読み通すことのできた小説となった。実はそれまでも、何冊か挑戦はしていた。しかし、どの小説も冒頭の数行で放り投げていた。フィクションである物語世界にどうしても入っていけないのである。だが、なぜかこの小説は違った。すっかり魅入られた。そして、こんな物語を書いてみたいと切実に願った。
今回文庫としてあらためて世に送り出せることになった『希望の海』の舞台「
そして、書けるか書けないかわからないままパソコンに向かい始め、最初に出来上がった短編が、本書の二話目に収録されている「冷蔵家族」だった。その一編を書き切ることができて、まだ小説家は続けられそうだと少しだけ希望が見えた。それが、やがて合計で八冊を数えることになる仙河海市の物語のスタートとなった。
熊谷達也
くまがい・たつや●作家。
1958年宮城県生まれ。97年『ウエンカムイの爪』で第10回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。著書に『漂泊の牙』『荒蝦夷』『相剋の森』『邂逅の森』『氷結の森』『モビィ・ドール』『銀狼王』『無刑人 芦東山』『エスケープ・トレイン』等多数。