[連載]
[第6回]行く移民、来る移民
「あそこは移民の家よ」―友人のノルリンダが指差す先には、美しく改装された家があった。ノルリンダが故郷の村に夫と私を案内してくれたときのことだ。私たちの住むS村と同様、住人の数より家の数のほうが多い限界集落で、白い壁が輝くその邸宅は周囲から少し浮いていた。
移民というのは私たちのような外国人のことなのだと、私は当然のように考えた。「夏に来るだけで、たいていは空き家なんだけどね」というノルリンダの言葉に、そうか、普段は母国に住んでいて、休暇を過ごしにポルトガルの別荘に来るのだな、と思った。二〇二一年までの私もそうだった。そういう人を移民と呼ぶのだろうかと、かすかに違和感があったものの、ポルトガル語での会話に必死で深くは考えなかった。
ところがそこから、だんだん話がかみ合わなくなってきた。「子供たちはポルトガル語を話せないのよ」と、どこか非難がましい口調で言うノルリンダに、休暇で訪れるだけの外国人の子供に言語習得を求めるのは無茶だろうと思った私は、「私たちのポルトガル語だって下手だけどね」と返した。ノルリンダは怪訝そうな顔をしたが、それこそポルトガル語が不自由な私たちと話がすれ違うのはよくあることなので、それ以上突っ込んではこなかった。
「引退したら戻ってきたいんだって」とノルリンダが言ったところで、私より先に夫が気づいて、「ポルトガル人のことだ」と私に耳打ちした。
ポルトガルには移民が多い―こう書くと、ドイツやフランスなどEUの大国のように、中東やアフリカから来た人たちが大勢暮らす国が想像されるのではないだろうか。少なくとも長年ドイツで暮らした私にとっては、「移民」とは私自身も含めて外国から入ってきた人のことだった。もちろんポルトガルにも外から来た人たちはいる。ブラジルやアンゴラなどポルトガルの旧植民地からの移民は多いし、アフリカや中東からの難民はEU各国に振り分けられるため、ポルトガルも一定数を受け入れている。
しかしポルトガルで「移民」といえば、主に国を出ていったポルトガル人同胞のことを指すのだと知ったのは、この国に来てしばらくたってからだった。
入ってきた移民(imigrante)と出ていった移民(emigrante)。発音がよく似ているので、私の
友人のエルサは、我が家のさまざまな改築工事を請け負ってくれたジョゼを通じて知り合った女性だ。彼女は子供時代の一九七〇~八〇年代をフランスで過ごした。emigrante、つまり出ていったほうの移民だ。
一九七四年まで続いた独裁政権下、ポルトガルの山奥の生活は極貧だった。エルサの親の世代はパン一個の報酬のために日の出から日の入りまで働き、二尾のイワシを六人きょうだいで分けて食べる暮らしだったという。エルサ一家は生き延びるためにフランスに行くことにした。しかし当時、国を出るには許可が必要だった。合法的な書類を持っていなかった一家は、夜闇に紛れて二つの国境を徒歩で越え、すでにフランスに出ていた親戚を頼って仕事を見つけた。年金も健康保険もなかった当時、ポルトガル人が頼りにできるのは親類縁者だけ。この国の血族の並外れた結束は、そんな時代の名残りなのだろう。
家具がひとつもないがらんとしたアパートで暮らし始めた日のことを、幼かったエルサは憶えている。段ボール箱をテーブル代わりに、床に座って食事をした。今月は椅子を一脚、次の月にはもう一脚、と家具をそろえていった月日。父は自転車工場で朝三時から夕方六時まで働いた。旅行も外食も一度もしたことがなかった。
一九七四年のカーネーション革命によって独裁体制が終わり、合法的に外国と行き来ができるようになってからも、ポルトガルの山奥は貧しいままだったから、エルサ一家はフランスで働き続けた。そして一九八〇年代末に故郷に帰り、フランスで貯めたお金で家を建てた。エルサの父は数年前に他界したが、現在九十四歳の母はいまでも元気でその家に暮らしている。
ノルリンダの故郷の村にある「移民の家」のように、私たちが暮らす山奥には、普段は無人の立派な邸宅がいくつもある。外国で働いて故郷に家を建て、老後はそこでのんびり暮らす―それが出ていった移民たちのサクセスストーリーのひとつであるのは間違いない。
もちろん現役のうちにポルトガルに戻ってきて、自分の店や会社を経営する人も多い。そんなわけで、我が家のあたりでは思いがけない場所でドイツ語を理解する人に出くわすことがあり、こちらとしては油断できない。衣料品店で夫と商品を見ながら「ちょっと高いんじゃない?」などとドイツ語で話していたら、店主に「そのベルトは地元の職人の手作りだからね」とドイツ語で言われて気まずい思いをしたこともあるし、逆に我が家の台所の作業カウンターを造ってくれた石工が私たちの下手なポルトガル語を見かねて、急にチャーミングなスイスなまりのドイツ語に切り替えてくれたために助かったこともある。
日本と同様、ポルトガルでも夏休みの八月は帰省の季節だ。都会ががらんとする一方、田舎では各地で二日、三日にわたる盛大な夏祭りが催され、日ごろは静かな町も村も人でいっぱいになる。ポルトガル国内の都市からの帰省者ばかりではない。地域のいたるところでフランスやスイスのナンバープレートを付けた車を見かける。最初のころは、観光地でもないこんな山奥にわざわざ車で遊びに来る外国人がこんなにいるの? と驚いたが、もちろんそうではない。「移民」たちが移住先の外国から、車に子供とお土産を積み込んで帰省してくるのだ。レストランやカフェも、地元のポルトガル人とは服装や髪型や歩き方までどこか違う人たちで賑わう。連れ立って歩く子供たちはおそらく移住先で生まれ育ったのだろう、英語やフランス語やドイツ語で会話している。
九月になると、厳しい暑さとともに移民たちも去り、小さな町は静けさを取り戻す。どこか浮き足立った賑やかな夏もいいけれど、やはり地元民しかいないカフェで静かにくつろげるとほっとする。コーヒーを運んできてくれた店員さんに「やっとまた私たちの町に戻ったね」と言われたときは、地元の一員と見なされているようでなんだか嬉しかった。
一方、入ってくるほうの移民(imigrante)に関しては、かつて多くの植民地を所有していたこの国の事情は複雑だ。二年前、人口十人の我が限界集落S村にアレシャンドラという六十代の女性が引っ越してきた(だがその後マリアおばさんが亡くなったため、人口は十人のままだ)。アレシャンドラは旧植民地のモザンビーク生まれ。祖父がS村出身で、何十年も前にモザンビークに移住した。孫のアレシャンドラは成人後、リスボンで家庭を築いて暮らしていたが、S村の祖父の家を相続したのを機に、子供たちも独立したことだし静かな田舎で暮らそうと引っ越してきたのだった。
当初はうまくやっていたアレシャンドラと村人たちだが、やがて問題が起こった。何十年も空き家だったアレシャンドラの家の裏の、道とも呼べない未舗装の細い通路が彼女の土地の一部なのか、それとも村の公道なのかで
もとの住人との関係に最も敏感であるべきなのは、ポルトガルより豊かな国から来た移民たちだろう。ドイツ人と日本人である私たち夫婦もこのカテゴリーに入る(近年では日本がポルトガルより豊かかどうかは怪しいところではあるが)。
温暖な気候、豊かな自然、治安の良さ、そして出身国に比べて安い物価に惹かれてポルトガルに移住してくる外国人は年々増えている。南部のアルガルヴェ地方には外国人富裕層が暮らす閉じたコミュニティがあるらしい。そこでは英語が公用語で、地元ポルトガル人は掃除やゴミ収集といった仕事をする人のみだという。また、リスボンなどの都市部には、政府の誘致政策もあって、オンラインで世界中どこにいても仕事ができるデジタルノマドと呼ばれる人たちが集まってくる。
一方、私たちの暮らす山奥に移住してきた外国人には、デジタルノマドのほか、ドイツ語で言うところの「Aussteiger(列車を降りた人)」も多い。学校を出て会社に勤めて……といった社会の既存のレールを自らの意思で外れた人のことだ。自給自足を志す若い家族、B&Bやヨガ教室などを営む人、(自称他称を問わず)芸術家、世界中を旅して流れ着いた人など、多彩で面白い顔ぶれだ。彼らは皆、決して裕福には見えない。なかにはどうやって生計を立てているのか不明な人もいる。トレーラーで生活して、家を建てる資金を得るために冬には母国に出稼ぎに戻る人もいる。それでも、彼らの自由な暮らしは、自国よりも安く生活できるポルトガルだからこそ実現したものだ。
移民の数が増えるにつれて、彼らが社会に与える影響も大きくなり、地域のありようも変わっていく。「地球にやさしい」だとか「自然派」などを
南海岸の富裕層であれ、デジタルノマドであれ、現代版ヒッピーであれ、好きでこの国に来て、いつでも好きなときに去ることができる移民だ。自分たちの信条や快適さのために社会のありようを変えた挙句、理想の楽園が楽園でなくなったとたんに焼け野原を残して出ていくとしたらあまりに理不尽だと、自戒も込めて思う。この国の人たちは、移民たちが去った後もここで暮らしていくしかないのだから。
ブルガリア出身のドイツ語作家イリヤ・トロヤノフは、両親の政治亡命に伴って幼いころにドイツに移住した。著書で、移民だった両親が初めてドイツ社会に溶け込めたと感じたのは地元のドイツ人を自宅に食事に招いたときだったと述べている。
帰る場所のなかったトロヤノフの両親と、好きでこの国にいる私たちとでは状況がまったく違うとはいえ、ここポルトガルの山奥で、私たちも同じような気持ちを味わったことがある。初めて地元の友人を六人招いて我が家のテラスでイワシの塩焼きをしたのは二〇二一年の夏だ。日頃は人づきあいが得意ではない夫の張り切りようは目を見張るほどだった。テラスでイワシを焼き終えた後、「ジャガイモがまだ茹であがっていないじゃないか」とジャガイモ担当の私に珍しく苛立った声を上げたことからも、ささやかなパーティーに懸ける夫の意気込みが伝わってきた。皆が「楽しかったよ」と言って帰った後のなんとも言えない充実感と感慨をいまでも思い出す。
一方、私個人にとって大きな節目になったのは、昨年三月の「国際女性デー」だ。それまではなんの関心もなく、私にとっては通常の一日になるはずだったその日の朝、S村の「移民」アレシャンドラに、町のレストランで女性だけの食事会があるから一緒に行かないかと誘われた。
その晩、アレシャンドラとグラシンダと三人でレストランに行った。店内はテーブルをくっつけて大勢が並んで座れるようになっており、町や近隣の村に住む女性たちが五十人ほど集まっていた。若者から杖をついたお年寄りまで年齢もさまざまな女性たち。郵便局員、スーパーやカフェの店員、歯科医、薬剤師―顔見知りが大勢いた。公共の行事でもないのに市長(男性)がやってきて全員に花を配ったうえ、女性をたたえる演説を一席ぶって帰ったかと思うと、今度は若い男性ばかりの楽団が来て、音楽を演奏した。あの陽気な空間で、周りの会話にまともについていけないにもかかわらず、私はすっかりリラックスして楽しんでいた。地元の人たちに溶け込めたようで嬉しかったのみならず、夫抜きであの場にいたことが私にとって大きな意味を持っていたのだと、いまならわかる。
異国であるポルトガルで、夫と私はいつも一緒に行動してきた。ふたりで勇気を奮い起こして困難を乗り越え、喜びや驚きを分かち合ってきた日々を大切に思ってはいる。けれどもともと単独行動が好きな性分でもあり、夫とは無関係なひとりの世界を、私はやはり欲していたのだろう。「C荘の外国人夫婦」の片割れではなく、私個人としてひとりで皆と交わったあの日は、私のポルトガルでの独立記念日だったような気がする。
イラストレーション=オカヤイヅミ
浅井晶子
あさい・しょうこ●翻訳家。
1973年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年トーマス・ブルスィヒ『太陽通り』でマックス・ダウテンダイ翻訳賞、2021年ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』で日本翻訳家協会賞翻訳特別賞受賞。訳書にイリヤ・トロヤノフ『世界収集家』、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』『誕生日パーティー』、ユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』ほか多数。