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佐々木 敦『メイド・イン・ジャパン』
[第7回]川端康成 VS. 大江健三郎

[連載]

[第7回]川端康成 VS. 大江健三郎

ニッポンのノーベル文学賞

 周知のように、日本の作家でノーベル文学賞を受賞したのはこれまでに二人、川端康成と大江健三郎です。川端は1968年、大江は1994年に受賞しました。以後、日本からノーベル文学賞は出ていません。
 ノーベル文学賞はダイナマイトの発明者として知られるスウェーデンの科学者アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて創設された5部門(正式には「ノーベル賞」ではない経済学賞を加えると6部門)から成るノーベル賞の内のひとつで、スウェーデン・アカデミーの18名の委員によって終始完全なクローズドで選考が行われ、他の賞と同様、毎年10月に発表されます。毎年の選考過程は50年秘匿される決まりになっており、したがってその年に誰が候補になっていたのかは半世紀経たないとわかりません。
 にもかかわらず、どういうわけか「ノーベル文学賞の有力候補」とされる作家が世界中に存在しており、川端と大江も受賞以前からたびたび名前を挙げられていました。近年は村上春樹が「今年こそ受賞か?!」と喧伝されて(はがっかりされて)きましたし(それもどうやらやんだようですが……)、ドイツ在住で日本語とドイツ語の二言語で作品を発表している多和田葉子が、最近は日本人作家のノーベル文学賞候補の最右翼と見做みなされています(私も同じ意見です)。2017年に1968年の選考の内容が公表され、川端康成は1961年から6年連続で候補になっていたことが判明しています。同様のプロセスでノーベル文学賞の正式な候補になっていたことが現時点でわかっている作家には、西脇順三郎、谷崎潤一郎、三島由紀夫、井上靖、伊藤整などがいます。また、選考委員を務めた人物の発言などによると、安部公房や遠藤周作も候補に挙がっていたことがあるようです。
 ノーベル文学賞には特に資格とされるものはなく、選考基準も(スウェーデン・アカデミーの選考委員長からのコメントはあるものの)必ずしも定かではありませんが、ひとつ重要な前提があります。他言語に翻訳されていることです。もちろんスウェーデン語に訳されていなくてはならないということではなく、原語以外の複数の言語に翻訳されていることが候補になる条件であることは、実際にはこれも特に明文化されているわけではありませんが、まず間違いないと思われます。英語以外の言語で書いている作家なら、当然ながら必要になるのはまず第一に英語への翻訳でしょう(英語作家も他言語に訳されていなければ候補にはなりません)。この連載の最初でも述べたように、日本語は日本以外ではほぼまったく使用されていないマイナー言語なので、日本の作家がノーベル文学賞の候補になるためには、代表作などの英語や他の言語の訳書が存在していることが必須です。読まれなければ評価のされようがないですから。よく知られているように川端康成の場合は『源氏物語』をはじめ数々の日本文学の名作の英訳を手がけたエドワード・G・サイデンステッカーの訳業がノーベル賞受賞に大いに貢献しており、大江健三郎も最高傑作と言われる谷崎潤一郎賞受賞作『万延元年のフットボール』(1967年)が1974年に"The Silent Cry"として英訳されて以降、重要な作品の多くが英語やフランス語(特に1980年代後半から仏語訳の刊行が相次ぎ、ノーベル賞への布石になったものと考えられます)、その他の言語に翻訳されていました。村上春樹がノーベル文学賞の候補と言われてきたのも、彼の小説が非常に多くの言語に翻訳されており、世界中に読者が存在し、批評家からも高い評価を受け、ベストセラーになることもしばしばであることが理由だと考えられます。多和田葉子は作品の約半分をドイツ語で執筆していますが、日本語→ドイツ語、ドイツ語→日本語の翻訳も(全てではありませんが)あり、英語などの他言語にも多数訳されています。また、次回で詳しく触れますが、多和田に続いて「いつかノーベル文学賞を貰うかも」と最近よくメディアで取り沙汰されるようになった、川上未映子、柳美里、小川洋子などの女性作家たちも、外国語(主に英語)への翻訳が進んでいることが、そのような予想と期待の温床になっています。

美しい日本の私

 ノーベル文学賞の受賞者はストックホルムのスウェーデン・アカデミーで記念講演をするのが受賞の条件になっています。川端康成の講演は「美しい日本の私─その序説」。サイデンステッカーによって同時通訳された英語のタイトルは"Japan,the Beautiful,and Myself"です。講演原稿は朝日新聞に全文掲載され、のちに講談社から他のエッセイと併せて刊行されました(講演の英訳も附されています)。道元と明恵の二首の和歌の引用から語り起こされるこの講演は、川端ならではの日本文学史/文化論「序説」です。
 川端は明恵の「雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雲や冷たき」という歌を「自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌」と表現します。これは日本人の心根を表したものと言えるでしょう。

 そのボッティチェリの研究が世界に知られ、古今東西の美術に博識の矢代幸雄博士も「日本美術の特質」の一つを「雪月花の時、最も友を思う。」という詩語につづめられるとしています。雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあう幸いを得た時には、親しい友が切に思われ、このよろこびを共にしたいと願う、つまり、美の感動が人なつかしい思いやりを強く誘い出すのです。この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。また「雪、月、花」という四季の移りの折り折りの美を現わす言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現わす言葉とするのが伝統なのであります。そして日本の茶道も、「雪月花の時、最も友を思ふ」のがその根本の心で、茶会はその「感会かんくわい」、よい時によい友どちが集ふよい会なのであります。(「美しい日本の私」角川ソフィア文庫)

 ここでいささか興味深いのは、矢代幸雄が「日本美術の特質」だと言い、川端も同意している「雪月花の時、最も友を思ふ。」という詩が、中国唐代中期の漢詩人、白居易の作であるということです。「日本においては」と言っているので、川端もこのことには意識的です。日本の美の核心は、すでにして、ある意味では輸入されたものだったのです。
 川端はこの講演で、猛烈な速度と密度で「日本の美」を紹介していきます。当然のごとく彼は禅についても触れています。

 禅宗に偶像崇拝はありません。禅寺にも仏像はありますけれど修行の場、坐禅して思索する堂には仏像、仏画はなく、経文の備えもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で坐っているのです。そして、無念無想の境に入るのです。「我」をなくして「無」になるのです。この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです。禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、禅の古典を習学するのは勿論ですが、思索のあるじはあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。そして、論理よりも直観です。他からの教えよりも、内に目ざめるさとりです。(同)

 川端はこの講演全体を通して「無」を強調しています(講演の最後にも「私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の根本がちがうと思っています」という一節があります)。その背景を成す禅は─「ZEN」として─川端がノーベル賞を受賞した1968年の時点で世界的に知られていました。

 日本の庭園もまた大きい自然を象徴するものです。西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、広いものを象徴出来るからでありましょう。勿論その不均整は、日本人の繊細微妙な感性によって釣り合いが保たれての上であります。日本の造園ほど複雑、多趣、綿密、したがってむずかしい造園法はありません。「枯山水」という、岩や石を組み合わせるだけの法は、その「石組み」によって、そこにない山や川、また大海の波の打ち寄せるさままでを現わします。その凝縮を極めると、日本の盆栽となり、盆石となります。「山水」という言葉には、山と水、つまり自然の景色、山水画、つまり風景画、庭園などの意味から、「ものさびたさま」とか、「さびしく、みすぼらしいこと」とかの意味まであります。しかし「和敬清寂」の茶道が尊ぶ「わび・さび」は、勿論むしろ心の豊かさを蔵してのことですし、極めて狭小、簡素の茶室は、かえって無辺の広さと無限の優麗とを宿しております。(同)

 川端は「一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思わせるのです」と続けています。ミニマリズムですね。このように「美しい日本の私」は、川端康成が自身の文学について述べたものというよりも、川端文学を産み出した日本文化早わかりとでもいうべき内容になっています。実際、この文章は、この35年前(1933年)に谷崎潤一郎が著し、1955年には英語訳されていた「陰翳礼讃いんえいらいさん」と並び、外国人向けの日本文化入門として最もよく読まれているものでしょう。「陰翳礼讃」の英訳題名はほぼ直訳の"In Praise of Shadows"ですが、先にも記したように「美しい日本の私」は"Japan,the Beautiful,and Myself"と微妙に変えられています(サイデンステッカーの裁量だと思われます)。しかし、より正確には"Japan,the Beautiful,and Myself as Nothing"とするべきかもしれません。Nothing=無にこそ「無辺の広さと無限の優麗」が宿る。この「無」という問題には、この連載の最後でまた立ち戻ることになるでしょう。そして、このような日本文化のあり方は、禅を含む「唐の文化の吸収がよく日本風に消化されて、およそ千年前に、華麗な平安文化を生み、日本の美を確立」(同)したものだった。つまり日本の美の淵源は、輸入文化だったのです。

あいまいな日本の私

 では次に、川端康成の26年後にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の記念講演を読んでみます。タイトルは「あいまいなアムビギュアス日本の私」、川端の「美しい日本の私」を踏まえていることは明らかです。大江はこれも川端と同様に、二つの作品についての話から始めていますが、彼が少年期に「心底魅惑された」というのは『ハックルベリー・フィンの冒険』と『ニルス・ホーゲルソンの不思議な旅』で、前者はアメリカのマーク・トウェインの作ですが、現在は『ニルスのふしぎな旅』として知られている後者はスウェーデンの女性作家セルマ・ラーゲルレーヴによる作品であり、これは幾らかはノーベル賞の国に敬意を表してのことだったかもしれません。しかし、これはいわば前置きであって、講演の開始まもなく、大江は川端の「美しい日本の私」を真正面から相手取って、講演テーマである「あいまい」へと繫がる濃密な議論を進めていきます。

 日本語の作家として、初めてこの場所に立った川端康成は、『美しい日本の私』という講演をしました。それはきわめて美しく、またきわめてあいまいなヴェィグものでありました。私はいまvagueという言葉を使いましたが、それは日本語でのあいまいな、、、、、という形容詞にあてたものです。それをここで念を押したいのは、あいまいな、、、、、という日本語を英語に訳す場合、いくつもの訳語が考えられるからです。川端が、おそらく意識して選んだあいまいさは、その講演のタイトルがあらかじめ示していました。それは日本語で「美しい日本の」という、その助詞「の」の機能によっているのです。(「あいまいな日本の私」)

 大江健三郎の講演は、川端康成の「美しい日本の私」に対する一種の文芸批評の様相を呈していきます。彼は続けてこう述べます。「まずタイトルは、「美しい日本」に属する私、を意味します。また「美しい日本」と私を、同格に提示しているとも受けとれます。さらに川端の翻訳者であるアメリカ人の日本文学研究者による英訳、"Japan,the Beautiful,and Myself"は、それをあらためて普通の日本語へ戻すとするなら「美しい日本と私」でしょうが、だからといってさきの練達の英訳者が、かならずしも裏切り者トラディトーレとしての翻訳者トラデュトーレとはいえないのです」。と言いつつ、大江は日本語と英語の「の」と「と」の違いに鋭く反応してみせます。やや長くなりますが、続きを引用します。

 右のタイトルのもとに、川端は、日本的な、さらには東洋的な範囲にまで拡がりをもたせた、独自の神秘主義を語りました。独自の、というのは禅の領域につながるということで、現代に生きる自分の心の風景を語るために、かれは中世の禅僧の歌を引用しています。しかも、おおむねそれらの歌は、言葉による真理表現の不可能性を主張している歌なのです。閉じた言葉。その言葉がこちら側につたわって来ることを期待することはできず、ただこちらが自己放棄して、閉じた言葉のなかに参入するよりほか、それを理解する、あるいは共感することはできないはずの禅の歌。
 どうして川端は、このような歌を、それも日本語のまま、ストックホルムの聴衆の前で朗読することをしたのでしょう? この秀れた芸術家が晩年にかちえた、率直で勇敢な信条告白の態度を、私は懐かしく思います。小説家としての永く苦しい遍歴の後、それ自体が理解を拒む表現である、これらの歌にこそ魅きつけられていると、そのように告白することによってしか、川端には自分の生きる世界と文学について、つまり「美しい日本と私」について語ることはできなかったのです。
 しかも川端は、次のように講演をしめくくったのでした。自分の作品を、虚無と批評する者がいるが、西洋流のニヒリズムという言葉はあたらない、心の根本がちがうと思う、道元の四季を歌った歌も「本来の面目」と題されているが、それは季節の美しさを歌いながら、じつは強く禅につうじたものなのだから。私は、ここにも、率直で勇敢な自己主張があると思います。自分が根本的に東洋の古典世界の禅の思想・審美感の流れのうちにあることを認めながら、しかしそれがニヒリズムではないと、とくに念をおすことで、川端は、アルフレッド・ノーベルが信頼と希望を託した未来の人類に向けて、おなじく心底からの呼びかけを行なっていたのです。(同)

 いかにも大江健三郎らしいというか、丁寧で誠実、敬愛に満ちているようでいて、読んでいると次第に「これって持って回った批判なんじゃないの?」と思えてくるような文章です。川端の「美しい日本の私」への大江の距離感は、あっさりと「神秘主義」と断じているところにも現れています。更にこのあと、大江はこう続けています。「さて、正直にいえば、私は二十六年前にこの場所に立った同国人に対してより、七十一年前にほぼ私と同年で賞を受けたアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェーツに、魂の親近を感じています」。大江はイェーツの受賞を祝してアイルランドの上院で行われた演説に「破壊への狂信から人間の正気を守る氏の文学は貴重である」という文言があることに注目し、「もしできることならば、私はイェーツの役割にならいたいと思います。現在、文学や哲学によってではなく、電子工学や自動車生産のテクノロジーゆえに、その力を世界に知られているわが国の文明のために。また近い過去において、その破壊への狂信が、国内と周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ国の人間として」。大江がこう語った1994年、日本のバブル経済はすでに崩壊していましたが、まだ現在言うところの「失われた30年」の始まりの頃であり、ここで暗に槍玉に挙げられているSONYやトヨタといった日本のグローバル企業はいまだ絶好調でした。また、1992年に「国際平和協力法」、いわゆるPKO法案が制定されており、『ヒロシマ・ノート』などの著作のみならず、行動の面でも戦後知識人の代表として戦争という「破壊への狂信」に抗ってきた大江の明確な立場表明がうかがえます(この点については講演のなかで詳しく述べられています)。

 このような現在を生き、このような過去にきざまれた辛い記憶を持つ人間として、私は川端と声をあわせて「美しい日本の私」ということはできません。さきに私は、川端のあいまいさ、、、、、についていいながら、vagueという言葉を用いました。いま私は、やはり英語圏の大詩人キャスリーン・レインがブレイクにかぶせた《ambiguousであるがvagueではない》という定義にしたがって、同じあいまいな、、、、、という日本語をambiguousと訳したいと思いますが、それは私が自分について、「あいまいなアムビギュアス日本の私」というほかにないと考えるからなのです。(同)

 ambiguousであるがvagueではない。大江は自分と川端康成の違いをこう表現します。この二語はどちらも「曖昧」を意味しますが、大江いわく川端の曖昧さはvagueすなわち「不明瞭な、はっきりしない、ぼんやりした」であり、自らの曖昧さはambiguous、つまり「両義的/多義的な、不確定で不安定」なものなのだと。「開国以後、百二十年の近代化に続く現在の日本は、根本的に、あいまいさアムビギュイティーの二極に引き裂かれている、と私は観察しています。のみならず、そのあいまいさアムビギュイティーに傷のような深いしるし、、、をきざまれた小説家として、私自身が存在しているのでもあります」と大江は続けます。

 国家と人間をともに引き裂くほど強く、鋭いこのあいまいさアムビギュイティーは、日本と日本人の上に、多様なかたちで表面化しています。日本の近代化は、ひたすら西欧にならうという方向づけのものでした。しかし、日本はアジアに位置しており、日本人は伝統的な文化を確乎として守り続けもしました。そのあいまいなアムビギュアス進み行きは、アジアにおける侵略者の役割にかれ自身を追い込みました。また、西欧に向けて全面的に開かれていたはずの近代モダーンの日本文化は、それでいて、西欧側にはいつまでも理解不能の、またはすくなくとも理解を渋滞させる、暗部を残し続けました。さらにアジアにおいて、日本は政治的にのみならず、社会的、文化的にも孤立することになったのでした。(同)

 歴史と伝統は語っても戦争や政治は語らなかった川端康成、日本の美と美しい日本について語った川端に対して、大江は極めてアクチュアルで真摯な問題意識を持って世界最高の文学賞の受賞講演に臨んでいます。日本の(今のところ)二人しかいないノーベル賞受賞作家は、こうしてみるとほとんど対照的に見えます(大江が意識的にそう振る舞ったとも言えますが)。川端の「美」、大江の「あいまい」。しかし両者はともに「無」の別名と言えるのではないか。何もなさ。そして、何もないがゆえに、どんなものでも入れることができる。からっぽの容器の中に投げ入れられた、たくさんの、さまざまなものは、器の内部で攪拌かくはんされて入り混じって変形し、外にあった時とは似ても似つかないかたちに変容したりもする。これは文学のみならず、日本文化の特質であり、文化のみならず、おそらくは日本という国の特質でもある。重要なのは、このことをマイナスにのみ捉えず、だがやみくもに否定することもなく、どうにかして何かしらポジティヴな要素に反転させることなのではないかと思います。いわば、何もなさこそを売りにすること。
 さて、こうして話は、日本人で三人目のノーベル文学賞受賞者になるかもしれないと長年期待されてきた、現代日本の小説家で最も多くの読者を世界中に持つ作家、村上春樹の「謎」に向かうことになります。

佐々木 敦

ささき・あつし●思考家/批評家/文筆家。
1964年愛知県生まれ。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『「教授」と呼ばれた男──坂本龍一とその時代』『ニッポンの思想 増補新版』『増補・決定版 ニッポンの音楽』『映画よさようなら』『それを小説と呼ぶ』『この映画を視ているのは誰か?』『新しい小説のために』『未知との遭遇【完全版】』『ニッポンの文学』『ゴダール原論』、小説『半睡』ほか多数。

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