[特集インタビュー]
小説というかたちでしか表現できない喪失感
砂原浩太朗さんの新著『冬と瓦礫』は、一九九五年一月十七日に発生した阪神・淡路大震災がモチーフの長編小説だ。歴史・時代小説の書き手として定評のある著者が、初めて発表する現代小説でもある。作品にかけた思いをうかがった。
聞き手・構成=編集部/撮影=山口真由子
執筆のきっかけ
―― 新著『冬と瓦礫』は一九九五年の阪神・淡路大震災がモチーフです。デビュー以来、歴史・時代小説を発表されてきた砂原さんにとって、初めての現代小説となりますが、作品誕生の経緯をお聞かせいただけますか。
幼いころから神戸で育ちましたから、この大震災は自分の人生にとって非常に大きな出来事でした。ですから、どうしても小説として残しておきたいという思いがあったんですね。原型となる作品を書いたのは、震災から十五年の節目を目前にした時期で、二〇〇八年から二〇〇九年にかけてです。
―― 砂原さんは二〇一六年に「いのちがけ」で第二回「決戦!小説大賞」を受賞し、デビューされたので、それ以前になりますね。
はい。勤めていた出版社を辞めて、フリーランスのライターや校正者をしながら作家を目指していた時期でした。
―― 砂原さんは現在、歴史・時代小説の書き手として知られていますが、当時は現代小説を書かれていたのでしょうか。
いえ、歴史・時代小説の作家になりたいとずっと思っていました。そこは一貫していて、デビュー前もそうした作品を書いていたんですが、『冬と瓦礫』に関しては書かずにいられなかった。執筆当時も、自分にとって最初で最後の現代長編になるだろうという意識がありましたし、いまもそう思っています。
―― 歴史・時代小説の作家になることを目指しているなかで、違うジャンルの小説を書くことになったわけですが、どのようなお気持ちだったのでしょうか。
一つには、大きな傷を負って以前の姿ではなくなってしまった故郷への思いが抜きがたくありました。
もう一つは、そうした深い思いがありながら、その場に居合わせなかった
ですが、ご家族が亡くなられたり、住む家を失ったりした方がたくさんおられるので、自分がそうした気持ちを吐露することはできないと思ったんですね。当事者になり切れなかったという感覚がずっと残っていました。でも、実は同じような立場の人が大勢いるのではないかと感じて、そうした視点での作品を残しておきたいと思ったんです。私が気づかなかったのかもしれませんが、そういう報道や作品にはまず出会ってきませんでしたし。
―― 当事者性は、この作品の大きなテーマでもありますね。
そうですね。作中、主人公が親友からある決定的なひと言を突きつけられる場面があります。それは、私が実際に言われたことで、ずっと心に残っていました。その言葉がなければ、この小説を書いていなかったかもしれません。いわば、『冬と瓦礫』は、そのひと言に対する自分なりの回答なんでしょうね。
もちろん被災された方を傷つけたくないということは意識していますが、小説でないと表せないような、たしかにあるけれど本当に微妙な、世間ではなかなか表に出てこない喪失感を、どうしても表現したかった。
手法の違い
―― 歴史・時代小説と、ご自身の体験をもとにした現代小説と、執筆にあたって違いなどは感じましたか。
意外に聞こえるかもしれませんが、違いはあまり感じませんでした。なぜかというと、事実をベースとし、大筋は変えずに肉づけして小説として成立させるのは、歴史小説の書き方と同じなんですね。事実が七割くらいで三割が脚色という、その配分も歴史小説に近いなと感じました。
―― 事実と脚色の配分をどうするかは作者が決めることですから、砂原さんはご自身の歴史小説と同じスタイルでこの作品を書かれたとも言えますね。
はい。歴史ものと現代ものという違いはありますが、結局、デビュー前から小説づくりの作法は変わってないのかもしれません。
―― 同じ事実であっても、史実はご自身が体験していないのに対し、この作品は自ら体験されたことがベースになっています。
動かせない事実という意味では同じかなと思います。たとえば関ヶ原の合戦が起きた日付は確定していて変えられません。歴史小説では文献的に間違いのないところはそれにしたがい、資料的に否定されない部分で脚色を加えていくわけです。
同じように、『冬と瓦礫』でも、震災や被災の状況に関しては、基本的にそのまま書いています。最初の執筆当時、新聞記事などの資料をかなりそろえて、逐一チェックしながら書きました。今回、書籍化するにあたって再確認しましたが、ほぼ間違いがなかったので安心しましたね。
―― 報道された事実はもちろん、主人公が歩いた距離や時間なども、リアルかつ正確に書かれているということですね。
ええ。震災発生から三日目、東京から駆けつけた主人公が何十キロもの水や食べ物を背負って
実は震災から十五年近く経って執筆するにあたり、同じルートを歩き直しました。そうしないとこの作品が噓になると思ったんです。西宮から三宮まではもちろん、ポートアイランドへも歩いて渡ったし、神戸市の北部に迂回して電車に乗るルートなど全部たどり直したので、描写にも生かされているのではないかと思います。
―― 十年以上経って同じ道を歩いてみて、何か気づきはありましたか。
かなり変わったなと感じました。震災の
―― 今回、あらためてこの作品に向き合ってどう感じましたか。
違和感はありませんでした。ちゃんと小説的につくられていると感じたので、細かな点は別として、エピソードやシーンの追加、作品の根幹に関わるような手直しはしていません。デビュー前ではありますが、この時点で作家としての手法や技量はほぼ出来上がっていたんだなと思いました。
自分との距離
―― 歴史小説と手法としては変わらないというお話でしたが、一方で特別な作品であるようにも感じられます。
どの作品にも魂を込めているつもりですし、どれもイコール自分ではあるわけですが、書き手と作品世界の距離が一番近いのは確かですね。
この作品は書き上げたあと純文学系の文学賞に応募して、一次は通過したのですが二次には残らなかったんです。本来自分が書こうと思っていたジャンルではないはずなのに、その落胆や絶望感がとても深くて、数年間、書けなくなりました。やはり力の入れ方や魂の込め方が、それぐらいの強度だったといいますか、まさに渾身の作品だったんですね。
―― 書けない期間というのは、具体的にどのくらい続いたのでしょうか。
五、六年かかりました。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、そのときは落ちるところまで落ちたという感覚がありましたね。でも、人間落ちるところまで落ちたら上がるしかなくなる。時間を経て考えられる余地が生じてくると、このままでいいのかと自分へ問うようになり、やはり作家と呼ばれるものの末席に名を連ねてから死んでいきたいと思って、小説講座に通い始めました。当時、フリーでの仕事がとても忙しかったので、無理にでも書くという仕組みが必要だと思ったんですね。
―― そこから再び作家をめざして動きだしたのですね。
はい。小説講座で最初に書いた作品が、先ほど話に出たデビュー短編「いのちがけ」になりました。
―― 経緯をうかがうと、デビュー前とはいえ、『冬と瓦礫』は、作家の転機という意味でも重要な作品になりますね。
本当にそうなんです。その時点で全部やり切ったという手ごたえがあって、書き終えたあと、資料なども処分しました。もうこれ以上書くことはないと思ったんですね。そういう意味でも本当に魂を込め切った作品と言いますか、当時の自分の思いも技術も全部注ぎ込んだものでした。
―― 執筆にかけた時間はどのくらいでしたか。
一年弱でしょうか。二〇〇八年一月に桜庭一樹さんが『私の男』で直木賞を受賞されたことになぜか刺激を受けて。震災から十三年ということと、桜庭さんの受賞が同日の紙面に載ったのは確かなんですが、なぜ桜庭さんだったのかは我ながらよく分からないですね。自分とは作風が正反対だと感じるのですが、それゆえにか、桜庭さんの小説には魅力を感じてずっと読んでいます。
―― 資料とは別に、この震災を扱ったほかの作品はご覧になりましたか。
それはしませんでした。ただ編集者時代に、阪神・淡路大震災をテーマにした女流新人賞受賞作を担当したことはありました。岩橋昌美さんの『空を失くした日』(一九九六)という作品で、優れた小説だったと思います。
―― ご執筆までの十五年という歳月には、どんな意味があったのでしょうか。
個人的な感覚ですが、書き始めるのに十五年という時間が必要だったのだろうと思います。震災直後はもちろんですが、十年後でも小説にするには早いと感じていたので。来年、震災から三十年になりますが、そこにもやはり節目を感じ、発表を決意しました。私はNHKの連続テレビ小説「おかえりモネ」(二〇二一)がとても好きだったんですが、東日本大震災のとき、当事者になれなかった少女が主人公なんです。今回出版に至ったのは、「おかえりモネ」に背中を押されたところも大きいですね。やはり、こういうテーマはあっていいんだ、と勇気をもらいました。
故郷への思い
―― 神戸という街が、作家としての砂原さんに与えた影響も大きいのではと感じられます。
決定的だと思います。幼少期に両親が離婚して、母の実家である神戸に引き取られたんですけど、非常に美しい街なんですよ。山も海もあり、文化的なものも多彩で、愛着を持てる要素が多い。住んでいる人の誇れるところが、たくさんある街なんですね。
―― 今作の主人公像にも反映されていますね。
主人公の境遇はほとんど自分と一緒です。私が育ったところは、主人公と同じく街の真ん中なのですが、当時歩いていける範囲に大きな規模の書店が四つありました。作中に映画館も出てきますが、これも徒歩圏内におそらく十スクリーンはあったと思います。
文化的なものがすごく身近だったんですね。そのことはとても大きくて、あの街で育っていなかったら自分は作家になっていないと、本当に思っています。
―― 砂原さんが作家性を培われた神戸の環境が、震災で大きな被害を受け、同じかたちでは残っていないわけですね。
書店は四軒のうち二軒は閉じてしまったと思います。もちろん映画館も大きな被害を受けました。私がたくさんの映画を観ていた阪急会館や神戸新聞会館も、震災の影響で閉館しました。新たなスクリーンは作られましたし、再開発もされていますが、大きく変わってしまいましたね。
―― 主人公は砂原さんとほぼ同じ境遇とのことですが、祖父に対して特別な思いを抱いていますね。
小説なので、家族や友人についても先ほど言ったように七対三くらいで事実と虚構を混ぜていますが、作中に書いた雨の日のエピソードは実際にあったことです。子どものころ、祖父に悪いことをしたという気持ちがありまして、それもこの作品を書く原動力のひとつになりました。
―― 一九九五年の阪神・淡路大震災以降もいくつもの震災が起きました。
私がこの作品を最初に書き上げた数年後(二〇一一年)には東日本大震災が発生し、今年(二〇二四年)の一月には能登半島地震がありました。当時の私と同じような立場にいる方も少なくないのではと想像します。この小説を通じ、私のような思いを抱いた方が少しでも救われたらと願っています。
砂原浩太朗
すなはら・こうたろう●作家。
1969年生まれ。兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。2016年「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。21年『高瀬庄左衛門御留書』で第9回野村胡堂文学賞、第15回舟橋聖一文学賞、第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。22年『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』『藩邸差配役日日控』『霜月記』『夜露がたり』『浅草寺子屋よろず暦』等。