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浅井晶子『ポルトガル限界集落日記』
[第4回]都会の論理と田舎の現実

[連載]

[第4回]都会の論理と田舎の現実

 ポルトガルの山奥に引っ越してくる前、私たちは二十年以上ドイツの首都ベルリンで暮らしていた。人口十人の限界集落と四百万人都市ベルリン。いまも生活のさまざまな局面で違いに驚かされる。ときにはそれが国柄の違いゆえなのか、むしろ都会と田舎の違いによるものなのかわからなくなることもある。
 日本のメディアで冷蔵庫のない生活をしている人の記事を読んだことがある。漬物などの保存食を手作りし、食料を溜め込まずにその日食べる分だけを買う。質素な生活の豊かさ、といった趣旨だったと記憶している。一読して私の頭に真っ先に浮かんだ感想は、都会の贅沢だな、だった。徒歩圏に店があって、いつでも物が買えるからこそできる生活だ。もっと言えば、現行の社会に対する信頼がなければできない生活だ。ある日突然物が買えなくなる事態を想定していないのだから。
 翻って我がポルトガルの田舎では、誰もが食料をこれでもかと保存している。どの家にも冷蔵庫とは別に大きな冷凍庫があって、罠を張って捕まえたりして自らさばいた猪の肉などが入っている。友人のグラシンダは町のスーパーから徒歩一分のアパートに住んでいるにもかかわらず、やはり立派な冷凍庫を持っている。一九八〇年代まで山奥の村には自家用車も電気もなかったから、現在六十代半ばのグラシンダは若いころ、まるで日本の明治時代の農民のような暮らしをしていた。そのころの経験が体に染みついているのだろうか。一度、彼女の家に行く直前に買った冷凍食品を「これ、帰るまで冷凍庫に入れておいてくれない?」と手渡そうとしたら、「無理」とあっさり断られた。いつもなにくれとなく助けてくれるグラシンダなのに、冷凍庫を使わせるのは拒否? 私なにかした? と焦ったが、「こんなんだから」と言って彼女が冷凍庫の扉を開けると、食料品が雪崩を打って落ちてきた。すでに容量オーバーだったのだ。
 備蓄するのは買い溜めた品ばかりではない。たいていの人は畑をやっているから、基本的に野菜は買わない。近くのO村にあるカフェ兼よろず屋は、牛乳から洗剤、傘にいたるまでなんでも揃う地域のコンビニ的存在だが、ジャガイモだけは売っていない。皆自分で作っていて、買う人がいないからだ。収穫したジャガイモ、タマネギ、ニンニク、豆などは一年分が自宅のアデガ(ワイン蔵)に保存される。唐辛子やパプリカはペーストに、果物はジャムになって、やはりアデガ行きだ。
 コロナ禍最初期の二〇二〇年春にも、記憶ではスーパーから小麦粉と、(なぜか)洗濯洗剤は消えたものの、その他は特に品薄にはなっていなかった。実はちょうどそのころ我が家で暖房を取り付ける工事をしていた技師たちから、まもなく食料品不足が起こるとの噂を聞いて、慌てて買いだめに走った後ろ暗い過去が私たちにはある。ところが、大型スーパーのレジに並ぶ人たちのなかで、カートいっぱいに商品を詰め込んでいたのは私たちだけ。「おやおや外人さん、どうしたの」という苦笑いを向けられて恥ずかしかった。田舎の人は冷静で、報道や噂に踊らされないのだろうかと考えかけたが、そもそも私たちに噂を吹き込んだのは当の田舎の人だ。結局のところ、皆もともと家に充分備蓄があったに違いないと、いまは確信している。
 食料品以外も備蓄は必須だ。夫が手作りした庭の自動水やりシステムのどこかに不具合が出たときなど、必要な部品をいちいち遠い都会のホームセンターまで買いに行くわけにはいかない。そこで夫は創意工夫の鬼となり、ジャムの空き瓶や蓋、コルク栓などで代用する。家の改修工事の際に余った木材や石材も大活躍だ。夫の作業部屋にはゴミにしか見えないそういった物が備蓄してある。断捨離などという贅沢をする余裕はない。物を持たない暮らしの対極ではあるが、すぐに捨てて必要になったらその都度買いなおすより、むしろ質素でシンプルな暮らしではなかろうか。
 私にとってポルトガルの山奥暮らしのなによりの美点は、そのおおらかさだ。犬猫との付き合い方にもそれが見て取れる。このあたりでは皆が何匹も飼っているので、とにかく犬猫が多い。だが村にはリードを付けている犬はいない。毎日、同じ村の犬たちが連れ立って仲良く道や畑を転げまわっている。村人は皆、飼い主が誰かにはあまり構わず、食べ物をやったり、遊んだり、村の犬猫と緩くつながっている。あるときS村のアントニオの飼い犬シャディスが四キロ離れたO村まで行ってしまったことがあった。O村の住人から「シャディスが来てるよ」と電話があったが、アントニオは都合がつかず、村人のルイが代わりに迎えに行った。猫たちもやはり気ままにぶらぶらしている。我が家に通ってくる猫のテルもしょっちゅう姿を消すから、どこかに別宅があるのではないかと私たちは疑っているが、あえて解明する気はない。そもそもうちが本宅かどうかも怪しいのだ。

 ――などと田舎暮らしを褒め上げてみたが、私は町育ちなので、実はしっくり来るのは都会生活のほうだ。徒歩圏にカフェやレストランがあり、映画館やコンサートにもふらっと気軽に行ける生活の楽しさ、便利さは捨てがたい。土着の野菜しかない田舎と違って大根だって青ネギだって買える。田舎生活のほうが健康的だというイメージも必ずしも真実ではない。肌が弱いので夏に蚊やブヨに刺されまくるのは肉体ばかりか精神にも大きなダメージだし、車でしか移動しないので、私のように座業だと運動不足にもなりやすい。なにより、人が多いからこそ誰からも見られず「透明」になれる都会の心地よさ。
 ところが、コロナ感染対策時のベルリンでは飲食店も映画館も閉まり、恒久的に存在するものだと思い込んでいた都会生活の便利さと気楽さはあっけなく失われてしまった。そうなってみると、ポルトガルの山奥ののどかさは、私にとって一層かけがえのないものとなった。もしあのころインターネットがなかったら、決して誇張ではなく、私たち夫婦はパンデミックに気づかないままだったかもしれない。なにしろ村でマスクをしている人はひとりもいなかったし、我が家の諸々の改修工事のために大勢で出入りしていた技術者や大工も、素顔のまま平気で密集して働いていた。きっと町に行ったときに、どうして店が閉まっているんだろうと不思議に思って道ゆく誰かに尋ね、ポルトガル語の説明を必死で聞いて、「感染症がはやっている」と大雑把に理解し、「へえ、気を付けよう」と思って終わったのではないか。
 突如としてディストピア小説のなかに迷い込んだかのように感じられて愕然としていたあの日々、人の営みに無関心な山奥の美しく逞しい自然と、淡々と日常生活を送る地に足のついた地元の人たちに、どれほど救われたか知れない。

 一見、吞気なだけの田舎の人たちだが、その根底には政治に対する拭い難い不信感がある。都会で決まる政治は自分たちを顧みないという実体験に基づく根深い不信感だ。特にポルトガルでは、疑念と不信は特定の政府の特定方向の政治にではなく、「政治」そのものに向けられていると感じる。
「弱者を守る」と謳われたコロナ政策にしても、しわ寄せを受けたのは当の弱者だった。そして田舎は相対的に弱者の割合が高い。高齢者施設などで働くいわゆる「エッセンシャルワーカー」も多い地域だ。仕事を休めないのに学校が閉鎖される。幼い子供をどうすればいいのか。彼らにとってはコロナウイルスよりもコロナ対策のほうがよほど深刻な、それこそ生死に関わる問題だった。
 コロナを持ち出すまでもなく、ここ山奥の人たちの政治不信はもともと筋金入りだ。「政治家なんて右も左もみんな犯罪者」という言葉を聞いたのも一度や二度ではない。権力に対する健全な不信感は本来、民主主義社会の市民にとって不可欠であるはずだが、ポリティカル・コレクトネスが極度に重要視される近年のヨーロッパでは、「政治的に正しい」とされる事象の矛盾や欺瞞ぎまんにも容赦なく向けられる田舎の人の疑念と批判は、都会の論理で動く政治とメディアに「愚か」で「正しくない」と断罪されがちだ。疑念の背後にある田舎の事情は顧みられない。
 典型的な例が、現在ヨーロッパ全土を揺るがす移民問題だろう。私たちが長年暮らしたドイツでは近年、暴力犯罪や性犯罪が爆発的に増加して、治安が悪化している。最近は毎日のように国内のさまざまな場所で刃物による傷害、殺人事件が起きる。多くの屋外プールでは、性犯罪の増加に悩んで入場に身分証明書の提示を求めるようになった。統計からは特定の地域からの移民による特定の犯罪の増加が指摘されるところだが、それを口に出すことは「政治的に正しくない」と見なされる。「そんなことを言う人間は反移民すなわち人種差別主義者だ」と、すべての移民を一括りにした一般論で非難されるのだ。「特定の移民による犯罪が増えている」という事実に「大多数の移民は犯罪を犯さない」という別の事実で蓋をする結果、かえって移民全体に対する反感が強まる悪循環だ。
 問題解決の第一歩は、その問題を直視し、名指しすることだ。しかし都市郊外の高級住宅街や都心部に暮らす高学歴、高収入層は往々にして「困っている人は助けるべき」「異文化に寛容であるべき」「多様性を重んじるべき」という政治的な正しさを盾に現実の問題を見ようとしない。彼らが日常で交わる主な「移民」は、出身国こそさまざまであれ彼らと同じ社会階層に属し、基本的価値観を共有する人たちだ。一方、ドイツとは根本的に女性観や宗教観が異なる文化圏からの移民たちの受け入れ施設は都市近郊や田舎に造られる。そして住民数に比して大人数の移民を受け入れきれず、日常生活上の問題に直面した地方の人が、犯罪を犯した移民や不法滞在者の強制送還を訴える右翼政党に投票すれば、「愚かな田舎者が右傾化している」と警鐘が鳴らされ、どうやって彼らを「正しい道に導く」かが議論される。彼らが「右傾化」するのはなぜなのか、その根本的理由は問われないまま、現実の問題が道徳の問題にすり替えられる。

 都会と田舎の亀裂は、ヨーロッパ内の大国と小国の亀裂とも重なる。EUという大所帯は基本的には独仏を始めとする大国の論理で動いている。私自身二十年以上ドイツで暮らして、ヨーロッパについてそれなりにわかったつもりでいた。けれどポルトガルで暮らすいま、これまでの自分が大国の視点でヨーロッパを見ていたこと、小国の存在と彼らの事情は目に入っていなかったことを実感している。
 ドイツ人のあいだではここ数年、休暇を過ごすのに最適な風光明媚で治安のいい国としてポルトガル人気が急上昇中だ。とはいえ、しょせんはにわか人気、ポルトガルという国の解像度はまだまだ低い。私たちが暮らしているのが海の近くでないとわかると、「それじゃあポルトガルに住む意味ないじゃん」と言われたことが何度もある(一方、ゲーテの時代からドイツ人が大好きで妙に詳しいイタリアの場合は、海からの距離は問題にされない)。最近は久しぶりに会ったドイツの友人に「どう、スペインでの生活は?」と訊かれて苦笑した。
 その程度の関心しかない割に、いや、だからこそ、ドイツ人は漠然とポルトガルはドイツに比べてあらゆる点で遅れているというイメージを持っているようだ。実際、国としてポルトガルが豊かではないのは事実だ。だが日常生活においては、インターネット砂漠のドイツよりポルトガルのほうがネット環境は何倍もいいし、日曜日にも店が開いていて便利だし、運休と遅延だらけでもはや時刻表がファンタジー小説と化しているドイツ鉄道より、ポルトガル鉄道のほうがずっと安心して乗れる。役所の効率の悪さと手続きの遅さはどちらもいい勝負だが、ポルトガルでは書類の期限が切れていても誰も気にする節がないうえ、役人もドイツ人ほど不愛想でも傲慢でもないので、ストレスは少ない。
 我が家の改修を手掛けるうちに友人になったジョゼは、流ちょうな英語を操るのを強みに、主にイギリス、ドイツ、スイスといったヨーロッパの豊かな国から移住してきた外国人の家を改修している。「外国人は歓迎だよ」と言いつつ、「でもポルトガルのことを発展途上国だとか上から目線で言う奴との関係はそこで終わり。ポルトガルにも悪い面はたくさんあるけど、よそから来て、こうするべきだと指図するのはお門違いだ」ときっぱり。
 ジョゼの気持ちは、長年ドイツでアジア人として生きてきた私には、わかりすぎるほどわかる。日本となんのつながりもなく、日本を訪れたこともないドイツ人から、日本とはどういう国か、どんな点を改善すべきかと大真面目に教えを受けたことは一度や二度ではない。日本人の感覚だとにわかに信じ難いが、彼らは本気で、自分たちの価値観が普遍的な善だとなんの疑いもなく信じている節がある。
 EU全体に影響を及ぼす政策も大国の論理で決まることが多い。二〇二二年、ロシアに対する制裁として天然ガス輸入量を減らすことを一方的に決め、エネルギー節約計画を立てて、加盟各国に罰則付きで守らせようとしたのも、EUの大国だった。南の小さな国々には相談さえなかったという。ポルトガルとスペインではその年、干ばつのせいで水力による発電量が落ちており、ガス発電所の稼働を増やす必要があった。しかしそんな事情が大国に顧みられることはなかった。
 ヨーロッパ内の大国と小国の関係は、世界に広げれば「先進国」とその他の国の関係にも重なる。強者と弱者のあいだに走る亀裂の根は、自分たちで決めた正しさが普遍的なものだと疑わず、その正しさを当然のものとして他者に押し付ける強い側の傲慢にあると思えてならない。

 さて、こんなふうに日ごろからドイツとポルトガルについてはいろいろ思うところがある私だが、結局のところ最もしみじみと違いを実感するのは、日常生活上の通俗的な場面――外出先でトイレに行く必要があるときだ。ドイツでは公共の場にトイレがほとんどない。一方ポルトガルにはいたるところにトイレがある。小さな町にも公共トイレがあるうえ、たいてい掃除が行き届いていて問題なく使えるし、おまけに紙もある(これはヨーロッパでは決して当たり前の事象ではない)。スーパーにも必ずトイレがあるので、買い物の際も困らない。長年ドイツのトイレ砂漠に悩まされた身としては、人間の生理現象を無視しないポルトガルはいい国だなあと、外出のたびに感慨を抱くのである。

イラストレーション=オカヤイヅミ

浅井晶子

あさい・しょうこ●翻訳家。
1973年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年トーマス・ブルスィヒ『太陽通り』でマックス・ダウテンダイ翻訳賞、2021年ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』で日本翻訳家協会賞翻訳特別賞受賞。訳書にイリヤ・トロヤノフ『世界収集家』、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』『誕生日パーティー』、ユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』ほか多数。

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