[今月のエッセイ]
三多摩を歩き回ってから十年
この度『東京都三多摩原人』が文庫化されることになった。この本のもとになった文章の連載を始めたのが二〇一三年四月だから、それから十年以上が経った。
ボクは、出来上がった自分の本をあまり読み返さない。だが文庫化にあたって久しぶりに全部通して読んだ。いろんな意味で、その十年という時間が面白かった。
まず、書いたことをずいぶん忘れていた。老化ですかね。だから読んで「へぇ」とかなるんだけど、そのすぐ後に、
「そうだったそうだった!」
と、文章を追うごとにその時の風景をまざまざと思い出すのだ。じじいである。でも楽しい体験だった。
第二話に登場する国分寺の「ほんやら洞」では、カウンターの隣の若い客がカレーを食べていた。そのうちあまりの辛さに彼の額から汗が噴き出し、鼻水が出るのか店のティッシュを使いまくって、それが山のようになっていた。その光景が動画ではっきり頭に浮かぶ。
ほんやら洞はその時「三十六周年」と書いたが、すなわち今は四十七周年だ。堂々たる老舗だ。でもその時、店の壁に貼られた写真に写っていた「物凄い髪型」のオーナー・中山ラビさんは二〇二一年に他界した。
当時、ボクは歩きながら、子供の頃や若い頃のことをどんどん思い出して、そのことを家に帰ってからすぐ文章に書いている。これは、本当に書いておいてよかった。今思い出せないようなこともたくさん書いてある。
文章の中にも何度か書いているけど、
「そこを歩いたら、思い出した」
という不思議とも言える出来事の記録だ。
これを書き始めた時、ボクは五十五歳だ。
地元を歩きながら、当時も「歳をとったな」と自分で実感していた。それは若い時のことを思い出すと、本当に何十年も前だったからだ。高校生の時、荒井由実を聴いて「日本の歌謡曲もついに変わるぞ !」と思ったのがもうその時点で四十年近く前なのだ。「このハゲオヤジにも青春はあったのだ」なんて書いている。
今はもうそんなふうには書かないな。
でもその時は、そう書きたかったんだな。十年前そう書いた自分が少しだけ懐かしい。
この本に書かれているのは、生まれ育った多摩を歩いた実感と、それが引き出した記憶。それしか書いてない。自己分析や考察はほとんどない。そこはよかった。
自分のことなので、当たり前だけど、スッカリ忘れていたことをクッキリ思い出すから、なんとも面白い。この感覚はさすがに文章では書き表せない。だけど、ボクは、ボク自身のことだから、こんにち十年前の文章を読むと、瞬時にその時の気分になる。
小学校の時の親友・イバラキくんの店に行きながら、小学校のことをどんどん思い出していくところなんて、自分の文章を読みながらニヤけてしまう。
子供の頃、親戚のおじさんおばさんが集まると、いっつも同じ話をしてゲラゲラ笑っているのを見て小学生だったボクは、
「また同じ話してあんなに笑って、馬鹿みたい。しかも内容もあんまり面白くないし」
と思った記憶があるが、今、自分ひとりでそれをやってる。本当に馬鹿みたいだ。
いや、しかしその体験をすぐ書いてくれてありがとう自分。文庫本を読み返してもまた同じくだりでニヤニヤするだろう。
武蔵野市営プールはまだある。
だがボクは二〇一九年に心臓の弁の手術をしてから一度も行っていない。その間にコロナ禍もあり、プールは何年も閉鎖されていたということもある。この本を読んで、水の中にいる自分を思い出して、一刻も早くプールに飛び込みたくなった。でも六十六。かなりである。かなり、来た。ヤバイ。今年はとうとう行けなかったから、来年……。早く行かないと、死んでしまう。それが冗談ではなくなってきた。
そう、文章に出てくる井の頭自然文化園のゾウのはな子も死んでしまった。
「紅茶の雫のよう」と書いているが、これも本当に間近ではな子の目を見た実感だ。
しかし文章にははな子が「今年、六十七歳」と書いてある。おいおい! なぜかちょっと焦る。
「ひとり相模湖」も面白かったな。あの低速モーターボート、まだあるのかな。今ひとりで乗ってたら、不審がられるかな。
後半の「実家観察」も書いておいてよかった。今や実家には誰もいない。父は今年亡くなった。母もリハケアセンターに住んでいる。今日、久々に用事があって実家に行ったが、無人の家は傷むのが早い。物を片付けて捨てたりしているせいもあるが、人の住んでいない家は、だんだん空家から廃屋に向かっている。切ない。
この文章、二千字と言われて、書くのが大変だなぁと思ったが、書き出したらあっという間に定量を超えた。なので終わります。
久住昌之
くすみ・まさゆき●1958年生まれ、東京都出身。
1981年、「泉昌之」名で漫画家デビュー。谷口ジローとの共著『孤独のグルメ』は10以上の国・地域で翻訳出版され、2012年にTVドラマ化。その他の著書に『野武士、西へ二年間の散歩』、共著に『野武士のグルメ』『花のズボラ飯』等がある。マンガ、音楽を中心に、活動は多岐にわたる。