[今月のエッセイ]
理不尽の向こうには
家族でも恋人でもないが、家族より恋人より大切な人を、何年も看病していたことがある。
はじめは私の周りには大勢の仲間がいて、私たちは皆で協力し合っていた。だが入院が長引くとそんな暮らしも徐々に変わり、仲間は一人減り二人減り、最後は私とOさんだけになった。そのときのことを思い出すと、私は今も理不尽さに怒髪天を衝き、自分の不甲斐なさに涙が落ちる。
辛い毎日を送っていたあの頃、私はぼんやりと病室の高い窓から下を眺めては、
忠吉は徳川家康の譜代の家臣で、家康の祖父のときから三代にわたって忠節を尽くした三河侍だ。家康が関ヶ原に向かうとき、伏見城に敵を引きつけて十数日も戦い抜いた鳥居
戦国期に弱小国に生まれた家康が早くに父を亡くし、人質として辛酸を
世は戦国。向かうところ敵なしの今川義元が横死を遂げ、信玄を擁する武田家も滅び、織田信長までが謀反に
だが忠吉は家康の人となりについては、人質に出されるまでの幼少期しか知らなかった。忠吉には忠義も律儀も、義理も人情もあっただろうが、なぜ年端もいかない家康にそこまで入れ込み、買いかぶることができたのだろう。
家康の祖父のとき、徳川家は破竹の勢いで周辺諸国を征圧していた。だが祖父が家臣に討たれると一気に勢力を失い、父は城さえも乗っ取られて流浪の日々を送ることになった。
どうにか城には戻ったものの嫡男の家康を人質に出さざるを得ず、そのさなか、またも家臣のせいで父は死に、家康は敵国に取り残された。
子供家康も悲惨だったが、主を失った家中がどれほど騒然とし、疑心暗鬼になったかは想像に難くない。それを忠吉は必死で
とはいえその日々の中で忠吉の周囲からは朋輩が一人去り、二人去り、これでもかというほど徳川家は衰退していった。私はといえば、そんな忠吉にただ自分の小さな日常を重ね合わせ、勝手に感情移入していた。
そうして私なりに奮闘していた日々の終わりかた、ついにOさんが去ると言い出した。私はまさに目の前が真っ暗になった。
ああきっと、忠吉もこんな絶望を感じただろう。それなのになぜ忠吉は、何を思って堪えることができたのか。
一人で涙を拭っていたある夜、精一杯の強がりの、必死で踏ん張る忠吉の声が聞こえてきた。
――きっといつか
家康が八月朔日に江戸城に入ったことは、今もその日を祝日とする形で残っている。天下分け目に向かう家康は、伏見城で元忠と一晩語り明かし、のちにその地で将軍
どれも忠吉の死後のことだが、生前の忠吉にはこれらを知っていたとしか思えないふしがある。
そんなことを思いながら書いた忠吉の話が十篇になり、『いつかの朔日』と題をつけた。だがなかなか刊行の機会が巡ってこず、作者としては少し悩ましくもあった。
ただこの本のことは、書いていた当時のあのひりひりした感覚に、もう蓋ふたをしろと何かに言われているような気もしていた。
だが理不尽の向こうには、いつか穏やかに思い返せる日が待っている。懸命にそう言い聞かせていたときからちょうど十年が経って、『いつかの朔日』は本になった。
十年前のあのとき、去ると言ったOさんに私は手紙を書いた。それは『いつかの朔日』で忠吉がしたのと全く逆のことだったが、Oさんは思い直して残ってくれた。そしてそのときから私とOさんは、二十の年の差を超えて真の戦友になった。
Oさんのおかげで私はあの日々を乗り越えることができた。だが忠吉はそれをせず、乗り越えた。
忠吉にそんなことができたのは、雲のあわいに何かを見ていたからではないかとずっと思ってきた。『いつかの朔日』で私が書きたかったのは、その忠吉が雲のあわいに見続けたものだった。
村木嵐
むらき・らん●作家。
1967年京都府生まれ。会社勤務、司馬遼太郎夫人福田みどり氏の個人秘書等を経て作家に。2010年『マルガリータ』で第17回松本清張賞を受賞。著書に『地上の星』『夏の坂道』『せきれいの詩』『阿茶』『まいまいつぶろ』(日本歴史時代作家協会賞作品賞、本屋が選ぶ時代小説大賞)『またうど』等がある。