[連載]
第3回 マリアおばさんの豆と卵
豆シチューを作ろうと思って、乾燥豆を保存してある瓶を手に取ったら、残りわずかだった。今回で使い切りそうだ。豆はマリアおばさんにもらったものだ。夏なら畑で採れたての新鮮なサヤインゲン、冬なら乾燥させた豆をたっぷりくれるおばさんのおかげで、長いあいだ豆を買ったことがなかった。けれどおばさんが新しい豆をくれることはもうない。昨年夏に亡くなったからだ。
マリアおばさんは七十代後半、我が家から近いS村の、十人しかいない住人のひとりだった。小柄でかりかりに痩せていて、腰がみごとに九十度に曲がっていた。村から山を下りたところに広い畑を所有していて、そこで栽培している豆と、家の庭を自由に歩き回っている鶏たちが産んだ卵とを持って、たまにうちを訪ねてきてくれた。
S村から見て向こう山にある我が家にわざわざ足を運んでくれるようになったきっかけはなんだったのか。私たちがC荘を手に入れて間もないころ、村の誰かの家で年配の女性たちがコーヒーを飲んでいるところに、どういうなりゆきだったか私が交ざってしまったことがあった。そこにマリアおばさんもいた。あの場に村の男たちもいたのかは記憶にない。いたとしても、いま思い出せないほど彼らの存在感は薄かった。当時の私のポルトガル語は、習い始めたばかりでまだ片言以下だったが、ご婦人方はしきりに褒めてくれた。特にマリアおばさんは、買ったばかりだった私のつば広の麦わら帽子のことも「素敵ねえ」と褒めちぎってくれた。すっかり気をよくした私は「いつでもぜひうちに遊びに来てくださいね」と皆に伝えた。もちろん現実に口から出た言葉は「私、家、来る、どうぞ」といった感じだっただろう。
それからほどなくして、マリアおばさんは豆と卵を持って本当に現れた。あのときの私の言葉が通じていたのか、それともほかに理由があったのか、いまとなっては確かめるすべもない。
マリアおばさんの畑は、おばさんの家と我がC荘とのほぼ中間にある。だからおばさんは畑仕事の合間に休憩をかねてやってきた。中間とはいえ、畑からうちまでは急な山道が五百メートルほど続く。私でも息が切れて途中で休憩せずには上れない道を、七十代後半のマリアおばさんは、夏も冬も素足に古い革の靴で、曲がった腰をものともせず、ひょいひょいと飛ぶようにやってきた。
ドアの前に立つおばさんの姿に驚きつつも嬉しくて、私たちは家にあがってもらおうとしたが、おばさんは畑仕事で靴が汚れているからと、屋内に入ろうとはしなかった(靴を脱ぐという発想はない)。そこで当時まだ造りかけでコンクリートがむき出しだったテラスにテーブルを置き、コーヒーとお菓子を並べて、おばさんに勧めた。
マリアおばさんは、出したコーヒーは飲むのに、どういうわけか食べ物には決して手をつけなかった。最初に来てくれたときには家にポルトガルのパンもお菓子もなくて、バゲットとジャムやチーズを出した。田舎には見知らぬものを食べない人も多いから、バゲットは失敗だったかと思って、その後ポルトガルの伝統菓子フィリョーシュを買っておき、次のときにはすかさず出したのだが、おばさんはやはり手をつけなかった。そういうわけで、私たちはひたすらコーヒーだけを飲みながら世間話をした。
とはいえ、夫と私のポルトガル語である。政治経済哲学は語れない。おまけに夫は母語であるドイツ語でさえ、いわゆるスモールトークのできない人だ。人間よりも動物とのほうが話が弾む。すべては私の肩にかかっている。マリアおばさん本人は黙っていても特に気づまりでもないようで、のんびりコーヒーをすすっていたが、私は天気のこと、畑や果樹や家畜のこと、我がC荘や村の昔の生活のことなど、毎回必死で話題をひねり出した。
「動物はなにを飼っていますか?」と私が訊くと、「猫が二匹、それに鶏と山羊と兎」とマリアおばさん。
「兎、かわいいですね」と私。するとマリアおばさんは妙な顔をした。「兎の名前は?」と質問したところ、「名前なんてないけど」との答え。嫌な予感がして、「あの、兎はどうして……」とおそるおそる尋ねた。するとマリアおばさんは平気な顔で「もちろん食べるためよ」と言った。
そういえば、ここポルトガルでは肉屋で兎の肉が普通に売られているのであった。
毎回、コーヒーを前にそんなふうに弾まない会話をしながら三十分ほどたつと、マリアおばさんは、じゃあ畑に戻るわと言ってやおら立ち上がる。そして来たときと同じように斜面をひょいひょいと飛ぶように下って、曲がった背中はあっという間に見えなくなるのだった。
町でばったり会うこともあった。マリアおばさんは車を運転できないから、町に出るときは隣に住む
あるとき町を車で走っていたら、マリアおばさんが通りを歩いているのが見えた。歩道に車を寄せて停め、「乗っていきますか?」と訊くと、「助かるわ、お願い」という返事。「じゃあどうぞ」と言って、乗り込む手助けをしようとシートベルトを外す間もなく、マリアおばさんは後部座席のドアを開けて、車に跳び乗った。はずみもつけずに文字どおりぴょんと跳んだのだ。急傾斜をひょいひょい上ってくるくらいだからわかってはいたものの、おばさんの脚力に改めて感嘆した。家と畑の往復で毎日のように山の斜面を上り下りしているのは
切ったオリーブの枝を曲がった背中に山ほど載せて、「日本昔話」のおばあさんのような姿で山道を上ってくるところに出くわしたこともある。「大変ですね!」と私が言うと、マリアおばさんは「畑がすごく好きなのよ。本当に好きなの」と笑って答えた。「好き」を二度繰り返したのが印象に残った。
おばさんは独り暮らしだった。きっと夫に先立たれ、子供は独立して、好きな畑仕事をしながらのんびり暮らす多くの高齢女性たちのひとりなのだろうと私は勝手に想像していたのだが、あるとき友人のグラシンダからマリアおばさんの身の上を聞いた。おばさんは二十五年前、当時二十代だった一人息子を事故で亡くしていた。その数か月後にもともと病気だった夫も亡くなり、あっという間に家族を失った。以後、隣に住む甥一家を頼りにしながら、独りで暮らしてきたという。おばさんの家の前には小ぶりの木々がたくさん植わっていて、冬には椿、夏には
マリアおばさんは脚ばかりでなく、胃も並外れて丈夫だった。それを実感したのは二年前の
二〇二二年の大晦日、暖房もない共生センターに並べたテーブルに、私とマリアおばさんはたまたま向かい合って座った。炭火で焼いた豚肉のステーキを、お酒を飲まないおばさんはコーラをおともに次々とたいらげていった。一枚、二枚……ついつい数えてしまう。おばさんより三十歳下の私が二枚で精いっぱいだったステーキを、おばさんはなんと四枚たいらげた。その後、皆が持ち寄った甘くて卵たっぷりの手作りデザート類も、コーヒーとともに軽々と全種類制覇していた。
年明けに夫と交わした最初の会話が「マリアおばさん、元気だね」だったのを憶えている。そして、私たちがテラスで出すお菓子に手をつけないのはやっぱりちょっと怖いのかもね、と笑い合った。
ところが年明けから、マリアおばさんの訪問は途絶えた。それまでもせいぜい月に一度だったからあまり気にしていなかったが、三月に村でばったり会ったときに、「また来てくださいね」と言ったら、おばさんはスカートをめくって膝を見せてくれた。「膝が腫れて痛くて、お宅まで山道を上れないの」去年末には車に跳び乗れるほどだったのに。それでもおばさんは生きがいである畑仕事をしに、家と畑はなんとか往復していた。「畑仕事が好きなのよ」と、そのときも何度も繰り返した。あのときは、それが最後の会話になるとは思ってもいなかった。
それからいくらもたたずに、マリアおばさんは入院した。家から通りに続く急勾配の階段から落ちて、脚の骨を折ったのだ。複雑骨折で、入院は長引いた。友人のグラシンダからそれを聞いた私たちはお見舞いに行こうと思ったが、入院先はうちから車で一時間半かかる大きな町の病院だった。グラシンダに「もうすぐ退院するからそれまで待てば」と言われて、そのほうが楽だなと思ってしまった。骨折だからいずれ治ると軽く考えていたせいもある。
グラシンダとその話をした日の夜、夢を見た。マリアおばさんが軽トラックを運転して村の家に帰ってくる夢だった。サングラスをかけたおばさんが、華麗なハンドルさばきで軽トラックをバックさせて、一度も切り返さずに家の前の狭い空間にぴたりと停めるのを見ながら、私は「マリアおばさん、運転できたんだ。私より断然うまいじゃん」と感心していた。目が覚めたとき、こんな夢を見たんだからきっとおばさんはすぐに元気になって帰ってくる、と確信した。
けれどマリアおばさんは帰ってこなかった。退院はしたもののまだ歩けないので、いったん村から近い高齢者施設に入った。ところが私たちが会いにいく間もなく、再び入院してしまった。検査で胃に
マリアおばさんはあっという間に亡くなった。八月のことだった。あるときグラシンダに「先週のお葬式、来てなかったね」と言われて、おばさんが亡くなったことを知った。グラシンダはその週に私たちが留守にしていることを知っており、どうせ参列できないのだし、きっと村の誰かから知らせが行くだろうと考えて、連絡しなかったという。
けれどおばさんの甥からも、グラシンダの元夫で私たちと親しいアントニオからも、知らせはなかった。やはり私たちはよそ者なのだなと、改めて実感した。よそ者だからこそ狭い村の難しい人間関係に巻き込まれずに済んでいるし、適度な距離感での付き合いは心地よく、よそ者であることのメリットを享受している。けれどマリアおばさんの葬儀に呼ばれなかったことは、少しショックだった。
葬儀でお別れを言う機会がなかったせいか、亡くなったと聞いても実感がないまま一か月たったころ、たまたまマリアおばさんの家の前を車で通ったら、隣に住む甥夫婦が片付けをしていた。
車を降りて、甥たちに遅ればせながらお悔みを述べ、しばらく立ち話をした。甥夫婦もやはり、あまりに急なおばさんの死になにがなんだか、という感じで、私たちは大晦日におばさんがステーキを四枚食べた話をしながら、「あんなによく食べていたのに、八か月後に末期の胃癌で亡くなるなんて」と言い合った。
やがて甥の妻が急に「あっそうだ」と、すぐ背後の物置部屋に駆け込んでいった。そして手に卵を二個持って戻ってくると、「これだけしかないけど、持っていって」と私に手渡してくれた。マリアおばさんの鶏がその朝産んだばかりの卵だった。おばさんがいつもうちに豆と卵を持って訪ねてきてくれたことを、甥たちも知っていたのだ。私たちのことを「いい人たちだよ」と話してくれていたという。
車に戻って手の中の卵を見ていたら、唐突に、マリアおばさんはもういないのだと気づいた。これが最後の卵なんだと実感して、初めて涙が出てきた。
四十年ほど前まで、我がC荘にはイルダおばさんという人が住んでいたという。伝説になるほど素敵な人だったようで、このあたりで現在五十代以上の人は皆、このイルダおばさんとC荘にまつわる温かな思い出をうっとりした顔で語る。マリアおばさんも例外ではなく、「昔はあそこがトウモロコシ畑で、あっちの窯でイルダおばさんがトウモロコシ粉のパンを焼いて」だとか、「ここにはイルダおばさんが丹精していた花畑があって」と、テラスからあちこちを指して語ったものだった。けれど思い出のなかのC荘が私たちによってどんどん様相を変えていくのを、マリアおばさんは決して否定的にとらえてはいなかった。むしろ「ここにテラスを造るなんていい考えねえ」と、変化を後押ししてくれた。
いまになって思えば、村の男たちは当初、言葉も通じない私たちのことを疑いの目で眺め、遠巻きにしていた。そんな男たちなど気にもかけず私たちに話しかけ、がんがん距離を詰めてきたのは主に年配の女性たちだった。C荘を手に入れたその日にいきなり訪ねてきたグラシンダを始め、私たちをお茶や食事に誘って質問攻めにする女性たちを見て、当初は「どうして外国人と仲良くするんだ」と彼女たちを責め、「言葉もわからない外国人がなにをするつもりだ」とつぶやいた男たちがいま、私たちのために肥料を調達し、ブドウやオリーブの栽培と収穫を助け、車のタイヤがパンクしたときには真っ黒になって交換を手伝ってくれ、一緒にワインを飲もうと誘いにくる。
私たちがいま、よそ者ではあっても親しい隣人として村の人たちに受け入れられて暮らしているのは、得体のしれない異邦人のアジトに豆と卵だけを武器に単身乗り込む勇気を持ち、変化を怖れなかったマリアおばさんのような女性たちのおかげにほかならない。
けれど私のほうはまだ変化を受け入れられずにいる。マリアおばさんの家の前にもう色鮮やかな花がないのを見るたびに驚くし、いまでも町に行くと、マリアおばさんをコーヒーに誘わなくちゃと、つい目を光らせてしまう。
イラストレーション=オカヤイヅミ
浅井晶子
あさい・しょうこ●翻訳家。
1973年大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年トーマス・ブルスィヒ『太陽通り』でマックス・ダウテンダイ翻訳賞、2021年ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』で日本翻訳家協会賞翻訳特別賞受賞。訳書にイリヤ・トロヤノフ『世界収集家』、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』『誕生日パーティー』、ユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』ほか多数。