[新連載]
第1回 ポルトガルの緩い抜け道
いまから十年前の二〇一四年、夫と私はヨーロッパ最西端にある小国ポルトガルに小さな家を買った。古くから営まれてきた農家で、地元ではC荘と呼ばれている。当時の私たちは夫の母国であるドイツの首都ベルリン在住で、ポルトガルの田舎家は休暇に訪れる別荘のつもりだった。その家に完全に居を移して三年目になる。
ポルトガルは海のイメージが強い国だけれど、私たちが住んでいるのは山のなか。斜面にテラス状に広がる敷地には代々の住人が丹精してきたブドウやオリーブやオレンジの木々が並ぶ。敷地の周囲は森で、一番近い隣家は一キロ先、山向かいのS村にある。いまでは人口十人の限界集落S村の、そのまたはずれでぽつんと孤立しているのが我が家C荘だ。なんといっても、こちら側の山の斜面にはほかに人家が一軒もない。
そんな本気の田舎家での生活を綴ったエッセイ「ポルトガル限界集落日記」を、一昨年から昨年にかけて、集英社のウェブサイト「文芸ステーション」に連載した。今回ご縁があって、本誌でその続きを綴ることになった。
さて、ポルトガルと言われても海以外には具体的になんのイメージもわかない人が多いのではないだろうか。お隣のスペインに比べてすべての面で存在感が薄い国である(そこが気に入っている)。料理に関しても同様で、日本でもスペイン料理に詳しい人は多いのに、ポルトガル料理となると、たいていの人は「?」という反応だ。しかしポルトガル人は皆、自国の料理にいたく誇りを持っている。そして食べることに情熱を傾ける。西ヨーロッパ一の貧乏国ながら、レストランは高級なところから庶民的な定食屋まで、いつも客でにぎわっている。
特徴的なのは、庶民的な店の場合、入口から入ってすぐのスペースがカフェ兼バーになっていることだ。食事になりそうなものはタラとジャガイモのコロッケ、サンドイッチといった軽食しかない。レストランスペースはカフェの奥や地下などにあり、昼食と夕食の限られた時間帯にのみ開く。この仕組みを知らないと、入店したはいいものの、カフェに座ってコロッケなどを食べて、首をひねりながら帰るはめになる。
我がC荘を買ったばかりで、ポルトガルのレストラン事情などまだなにも知らなかったころ、夫と、日本から訪ねてきた友人Aとともに、昼時に車で〈炭火焼きレストラン〉と看板のかかった店の前を通りかかり、入ってみたことがある。ところがそこはカウンターしかない狭い空間で、しかも無人だった。壁には「トースト」や「ビファナ」といった手書きのお品書き。ビファナとは豚肉のソテーをはさんだサンドイッチのことで、ポルトガルの軽食の定番だ。それはそれでおいしいものの、炭火焼き料理とはかけ離れている。それともここのトーストやビファナの肉は炭火で焼いたものなのか。
とまどいながらぼうっと立っていたら、年配の男性が数人、奥の通路らしきところから出てきた。いま思えば、奥のレストランで食事を終えたお客さんだったわけだ。食事客は食後にカフェスペースのカウンターでコーヒーや食後酒を飲みながら店主と談笑したりする。
そんなこととはつゆ知らずたたずんでいる私たちを、おじさんたちは引っ張るようにして奥に連れていってくれた。廊下を延々と歩かされ、いったいどこへ連れていかれるのか、犯罪にでも巻き込まれるのでは、と私の頭のなかで妄想が始まった。隣を吞気に歩く夫はこう見えても空手四段、こんな太鼓腹のおじさんたちなんか敵じゃないはず、と勝手に他人任せの戦闘態勢に入ったころ、ついにレストランスペースにたどりついた。
小さな店では、メニューは日替わりの数品が普通だ。その店には本日のメニューを手書きした紙さえなく、まだポルトガル語の会話がほとんどできない私たちに、今日のお薦めは前菜が「石のスープ」、メインが「カモの炊き込みご飯」であること、どちらも非常に美味なので絶対に食べるべきであることを、さっきまで私に一方的に敵認定されていたとも知らず、おじさんたちが身振り手振りで伝えようと奮闘してくれた。
「石のスープ」という変わった名前には由来がある。お腹をすかせた旅人が村人に石を見せ、「これは煮るだけでおいしいスープができる魔法の石だ」と言って、鍋に石と水を入れて煮始める。途中で味見しながら、「おお、おいしい! でも塩があるともっとおいしくなる」と言うと、興味を持った村人が塩を持ってくる。同じ要領で「野菜があるともっと……」「肉があるともっと……」とあれこれ持ってこさせて、最後には本当においしいスープができた、というものだ。要するに「石のスープ」とは野菜や肉や豆が入った具沢山のスープのことである。
─という話を、親切なおじさんたちは全身パフォーマンスで必死に語ってくれたようなのだが、当時の私たちにはさっぱり理解できず、後にインターネットで調べて彼らの妙な踊りの意味を知ったのだった。
さて、おじさんたちの踊りを横目で見ながら食べた石のスープとカモの炊き込みご飯は、思わず声が出るほどのおいしさだった。どちらも典型的なポルトガル料理で、その後もあちこちで食べてきたが、あのときの感動を超えるものにはまだ出会っていない。初めてのポルトガル訪問だった友人Aにとっても幸運な出会いだったのではないだろうか。ちなみに、どちらも結局炭火焼き料理でなかったのはご
レストランの手前はカフェ─この構造が存分に活かされたのが、コロナ対策実施当時だった。なにしろこのおかげで政府のワクチンパス政策が華麗に回避されたのだ。
二〇二一年秋、ドイツを始めとするEUの大国はワクチン非接種者に飲食店や小売店など屋内施設への立ち入りを禁じる政策を次々に実行に移し始めたが、ポルトガルは長らくなにもしていなかった。しかし二〇二二年の一月から二か月間ほど、諸大国にならったのか、飲食店に入るのに、ワクチン二回接種済み、またはコロナ感染後に快復済み、または二日以内の陰性検査済み、いずれかの証明書の提示が必要になった。これは法的拘束力のある政策で、警察が店に検査に来て、条件を満たさない客が入店していることが発覚すれば、客本人のみならず、店が法外な罰金を払わされた。
とはいえ、そもそもポルトガルでは、お上のお達しとその現場での運用には大きな開きがあるのが常で、地元のレストランでは証明書を見せろと言われること自体が稀ではあった。しかし都会の店や、田舎でも規模が大きめの店では、入口で証明書提示を求められることもあった。
ところがどういうわけかこの政策、そもそも対象となる店にカフェが入っていなかったのである。つまりカフェには誰でも証明書なしで堂々と入ることができた。となれば、レストランで「証明書ありますか」と訊かれて、ないと答えた場合になにが起こるかは予測がつくというものだ。もちろん笑顔の店員さんに「じゃあカフェスペースにどうぞ」と案内されるのである。もともとレストランが満員のときにカフェのほうに客を座らせるのはよくあることなので、特に違和感もなかった。
ポルトガル人を見ていて興味深いのは、なにかにつけこういった華麗な回避技を特段の力みなしにさらりと繰り出す点だ。「政府の言いなりにはならない」「間違った政策には従わない」「自由と人権を守るぞ」といった抵抗精神や反骨精神も、抜け道を見つけた自分すごいだろう、という自己顕示欲もあまり感じられず、なんというか肩の力が抜けまくっているのである。規則を破っているという意識があるのかさえ怪しい。
一方、私たち夫婦が長年暮らしたドイツでは同時期、ポルトガルの上を行く極端な政策が実施されていた。これはワクチンを打っていない者に、飲食店、小売店、公共施設への立ち入りを完全に禁止するもので、非接種者は陰性証明書の有無にかかわらず、食料品店と薬局以外の店には入れなかった。この政策が感染症蔓延防止のために必要な措置なのか、それとも倫理にもとる人権侵害なのかで、ドイツ市民の意見はまっぷたつに分かれた。少数派である政策反対者は「人権」「自身の体に対する決定権」を主張し、寒く暗い真冬に警察の放水車から水を浴びせられながらも、ひるまずデモをしていた。
一方そのころ、陽光あふれる南国ポルトガルでは、市民たちが涼しい顔でのらりくらりと規則を回避していたわけである。
そんな回避技は、この政策時ばかりでなく、当時は頻繁に見られた。ワクチンパス政策導入からさかのぼること一年弱の二〇二一年春、復活祭前の金曜日。友人のグラシンダから電話がかかってきて、「いまお宅の前まで来てるから一緒に散歩に行かない?」と誘われた。外に出てみると、グラシンダ、末娘のフェルナンダとその夫ジョアン、ジョアンの弟ジョゼがそろっていた。グラシンダ以外は全員が遠い都会で暮らしている。この年の復活祭の期間には、市民は自分の居住地域を出てはならないというお触れが出ていた。もちろん罰則付きのれっきとした規則だ。「あれ、移動できたの?」と、意表を突かれた私が訊くと、「うん、今日からだめだから、有休取って昨日のうちに帰省してきた」とさわやかな笑顔が返ってきた。「でも道がすごく混んでてさあ」と文句も言っていたので、おそらく全国の大勢が同じことをしたのだろう。
そのころはロックダウン中で、カフェの屋内での営業も禁じられていたが、近くのO村にあるカフェでは、我がS村のご近所さんであるアントニオとマリオがカウンターでビールを飲みながら談笑していた。「もう屋内OKなの?」と、早とちりした私が喜んで訊くと、彼らは一瞬沈黙して顔を見合わせた。やがてマリオが入口を指さして「ドアを見ろ」と言った。続いてアントニオが「開いてるだろ、風が入ってくるだろ」。そしてふたりほぼ同時に「つまりここは屋外だ」と言ってガハハと笑い、私にビールを
上に政策あれば下に対策あり。私が為政者なら、正面から抵抗されるより、涼しい顔で政策を骨抜きにされるほうがダメージになりそうだ。四十年以上続いた独裁政権、市民が負け戦に駆り出された植民地独立戦争、その後に続いた不況に重税─数々の理不尽をしたたかに生き抜いてきたポルトガルの
ところで、店舗や施設への立ち入りにワクチンパスの提示を求めた当時の政策は、いまでこそ黒歴史扱いだが、当時はもちろん感染症の蔓延を防ぐという建前のもとに導入された。人がテーブルを囲んで飲食しながら会話するという点ではカフェもレストランも同じだ。だから建前に従うなら、当然カフェにも同じ入店条件を課すべきだろうと思うのだが、いったいなぜポルトガル政府はカフェを除外したのか。EUという巨大な共同体のなかで随一の影の薄さを誇る弱小国ポルトガル、国の実情に合わない諸政策を独仏など大国の論理で押し付けられることも多い。あの政策もそのひとつだったのではなかろうか、だから当局も意図的に抜け道を作ったのではと、私は勝手に妄想している。見落としにしてはあまりに間抜けだからだ。ポルトガルでは、巨大な権力が投げかける網の目をひょうひょうとかいくぐる技が個人のみならず国レベルで浸透しているのでは。しかし一方で、「頑張っているのに大穴を見落とす」がポルトガルの国技の域に達しているのもまた事実だ。結局は単に政策を作る際にカフェの存在を見落としただけのことかもしれない。ポルトガル人の「うっかり」は決して甘く見てはならないのである。
イラストレーション=オカヤイヅミ
あさい・しょうこ●翻訳家。
1973年大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年トーマス・ブルスィヒ『太陽通り』でマックス・ダウテンダイ翻訳賞、2021年ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』で日本翻訳家協会賞翻訳特別賞受賞。訳書にイリヤ・トロヤノフ『世界収集家』、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』『誕生日パーティー』、ユーリ・ツェー『メトーデ 健康監視国家』ほか多数。