[本を読む]
市井の人びとの奇談から時代と街が見えてくる
阪急電鉄「待兼山駅」。東口の駅前、書店の二階に「喫茶マチカネ」はある。一階の「らんぷ堂書店」とともに、とある夫婦が戦後十年足らずの頃に始め、いまは息子たちが継いでいる。ところがこの二つの店が同時に閉店することになった。駅名が「大阪大学前駅」に変更され、待兼山という名前が駅から消える。このあたりが潮時ではないかというのだ。
そこで常連客の一人がある提案をする。閉店までの六ヶ月間、月に一度、待兼山にまつわる不思議な話を語る会を開き、本にまとめてはどうか。『今夜、喫茶マチカネで』は、「待兼山奇談俱楽部」と名付けられたその会で語られた物語で構成された小説である。
街角の喫茶店で語られる「奇談」とはどんなものだろう。派手な怪異や背筋が凍るような恐い話──ではなく、語り手の人生に起きた、希望の光となるような小さな奇跡である。ビートルズやはっぴいえんどの名曲が登場し、地元で発掘されたマチカネワニの化石や、日本初のインディーズ・レーベルURCレコードといった、知っている人には忘れがたい、知らない人には驚くような街角の物語だ。
ところで、阪急に待兼山駅なんてあったっけ? と思われた方は鋭い。むろん小説の中で架空の駅が登場することなどいくらでもある。しかしこの作品の場合は待兼山駅が実在するかしないかが大きな意味を持つのだ。その意味が明らかになったとき、この小説そのものが奇談として立ち上がってくる。
作者の増山実は放送作家を経て二〇一三年に長編小説『勇者たちへの伝言』で作家デビュー。市井の人びとの人生に寄り添った作品群は、フィクションとノンフィクションが入り交じり、海水と淡水との汽水域を思わせる。
この作品もまた、事実がもとになっているのでは? と作者に尋ねたくなるようなリアリティがある。しかし事実か虚構かは関係ないのかもしれない。この本を開けばいつでも、待兼山駅前にある「喫茶マチカネ」に行くことができるのだから。
タカザワケンジ
たかざわ・けんじ●書評家、ライター