[今月のエッセイ]
わからないけど、わかる。
久しぶりに体調を崩してしまった。
もう少し若いころだったなら、栄養ドリンクでも飲み、精いっぱい厚着して毛布と布団を積み重ね、ひと晩汗をかけばおおかた治ったものだったが、さすがに近ごろはそういうわけにもいかない。無理をすると
どうせ休むのなら積んである本を幾らかでも消化したいところだったが、大汗をかくほどではない中途半端な発熱と、耐えられないほどではない頭痛のせいで文字を目で追うのが辛く、残念ながらそういうわけにもいかなかった。次回作のアイデアを練ろうにも、体調のせいか普段でさえ潤沢とは言えない集中力は途絶えがちで、結果、ほとんどの時間はうつらうつらしながら無為に過ごすしかないという有り様となってしまった。
日ごろの不摂生を
今年で十一歳になるトライカラーのキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルと、四歳になったブラウンのトイプードル――わが家の愛犬たちが、私をただの無為な時間から救い、ぬくもりと安心とをくれたからだ。
二匹の犬は、私が何もできずにただベッドに
犬と暮らすようになってから二十年以上になるが、どの犬も家族の誰かが肉体的、あるいは精神的に疲弊していると、どういうわけかすぐに察知してその身を寄せてくれる。励ましの言葉をかけてくれるわけでも病気を治してくれるわけでもないが、まっすぐに視線を向けて傍から離れようとしなくなる。ただそれだけのことが、どれだけの救いになるかわからない。
今回もそうだ。なかなか熱が下がりきらず、
……などと書いてはみたものの、二匹の本当の意図などわかるはずがないことくらいは私にだってわかっている。私にくっついていたのは、いつもの日中なら変な光る板に向かってデコボコした塊をパチパチ叩いているだけの私がずっと寝ているから思うさま甘えたかっただけかもしれないし、あるいは普段より体温が高いから暖をとるのにちょうどよかったからなのかもしれない。私の汗を舐めて拭ってくれたのも、ちょうどいい塩加減で美味だったという可能性の方が高いのは遺憾ながら認めざるを得ない。
とは言え、“本当のこと”を突き止める
だが、それでも、わかるのだ。わが家の二匹は発熱した私で暖をとり、塩気のある身体を堪能したかもしれないが、同時に普段とは違う様子の私を心配してくれてもいた。それは、人間の言葉で言う“心配”とは少し違うかもしれないが、相手のことを気にかけるという意味では同じことだろう。
私はそれを確信している。だが、なぜそんなふうに信じられるのかと問われるとうまく答えられない。証明のしようなどないだろうと言われれば全くその通りで、反論の余地はない。しかしそれでも、私は二匹が家族に向ける愛情を全く疑うことができない。犬と人間のあいだにある繫がりは、私には自明のこととしか思えないのだ。言語によらない理解を確信できるのは、お互いが同じ惑星の上で進化してきた、同じ哺乳類だからだろうか。あるいは、二十年の個人的な経験や、人間が犬と暮らすようになってから長い長い時間をかけて築かれてきた信頼関係の物語があるからだろうか。
だとしたら――と、創作者としての私は、そこで考え始めてしまう。全く別の背景を持つ、発生からして異なる存在が現れたらどうなってしまうだろう、と。高度に知性を発達させた結果、一見すると相互理解ができそうに思えるのに、実際にはお互い決して理解しあえない存在が現れたとしたら――。
言葉がなくても通じあえる存在と、どうやっても決して理解しあえない存在。昼寝する愛犬をひざに乗せ『ウィンズテイル・テイルズ』を書きながら、私は頭の隅でそんなことをずっと考えていたのだった。