[特集インタビュー]
自分の体を自分のものにするということを、
書き続けていく
移住先のカナダ・バンクーバーで乳がんが見つかり、両乳房摘出手術を受けた日々を綴ったノンフィクション『くもをさがす』(河出書房新社、四月刊)が、八月には二五万部を突破し話題となった西加奈子さん。最新刊『わたしに会いたい』は、小説としては長編『夜が明ける』以来二年ぶりとなる、短編集だ。
コロナ禍で感じたこと、カナダで過ごしたこと、がんになったこと……。自身の体験や記憶を種に生まれた、パワフルで光に満ちた八つの物語。普段は長編を中心に活動する作家の短編集には、長編にはない“効きの強さ”が宿っていた。
聞き手・構成=吉田大助/撮影=中川真人(CUBISM)
自分は自分以外になれない絶望と、心強さ
―― 今回の短編集は、文芸誌「すばる」に発表した作品をはじめとする全八編が収録されています。実は、西さんが集英社から本を出されるのは初めてなんですよね。何かきっかけがあったのでしょうか。
『おまじない』(二〇一八年三月刊)という短編集を出した時、「すばる」の編集者の方から素晴らしい感想をいただいたんです。自分の知らない私の短編の良さを教えてくださった、すごく力になる感想だったんですよね。その方に新しい短編を読んでほしいなと思って、書いたものをお送りしたのがきっかけです。
―― 収録作で最も時期が古いものは、「すばる」二〇一九年一月号の第一編「わたしに会いたい」(単行本収録時に「私に会いたい」から改題)。西さんがご家族とカナダに滞在していたのは二〇一九年一二月からの三年間ですから、まだ日本にいる時に執筆されたものですね。
数年に一度起きることなんですが、「わたしに会いたい」と「VIO」(「すばる」二〇一九年六月号)と「掌」(「すばる」二〇二〇年六月号)の三本のイメージが、ある夜ブワッといっぺんに浮かんできたんです。「わたしに会いたい」で言えば、もう一人の自分がヒーローのマントを翻して自分の元へやってきて助けてくれる、という断片的なイメージです。それを元にして、主人公の女の子が歯の治療で痛い思いをしている時に、自分と同じ歯医者さんのケープをつけたもう一人の自分がやってきて、会えないんだけれども救ってくれる、というシーンができました。
―― 短編集の表題作となった「わたしに会いたい」は、本書全体を象徴する内容だと感じます。主人公の
ヒーローが他に存在してしまった場合、その人が来てくれなかったら解決しないですよね。でも、自分がヒーローだったら、自分を救うのも自分次第じゃないですか。
―― 本書収録のどの短編も主人公たちが負の状態、あるいは
私もこの短編は、最後のほうで一段ギアを上げたと感じています。さっき「厄介さ」とおっしゃっていただきましたが、たぶん私は自分という存在に対して「もどかしさ」をずっと感じているんですよね。四十数年間、自分が自分以外になれないということに対して淡く絶望し続けてきたように思うんです。その一方で、世界をどう切り取るか、世界から何を得るか、世界をどう見るかは結局全て自分にかかっているんだと思うことで、そっか、だったら自分次第なんだなという、驚くほどの心強さもある。自分は自分以外に絶対なれないことがプラスの方向に振り切って出ていったのが、この短編だったんだと思います。
――「VIO」と「掌」は、どんなイメージから出発したんでしょうか?
「VIO」は若い頃、VIO(下半身のデリケートゾーン)脱毛をした時にアホかというぐらい痛くて、当時「何のためにこれをやってるんだろう?」と思ったんですよね。「私は、誰のためにこの痛みに耐えないといけないんだろう?」と。「掌」も若い頃の思い出として、雑居ビルでバイトしていた時に、磨りガラス越しに、屋外の踊り場でセックスしている人たちを目撃してしまうことがあったんです。その磨りガラスに手をついているというか、手をつかされていたのは圧倒的に、女性が多かった。「女性の手ばっかり見るなぁ」と当時ぼんやり思っていたことが急に浮かび上がってきて、その記憶を元にした小説が書きたいなと思ったんです。
―― 西さんの脳裏にふと蘇ってきたかつての記憶を手がかりとしながらも、二作ともストーリー性が高く、イメージの跳躍力があります。「掌」にはミステリー的な要素がありますよね。「VIO」はガールズバーで働く女の子がエステで下半身のムダ毛を処理するという入口から、戦争へと話題が膨らんでいくことに驚きます。
下半身の毛をレーザーで焼いてもらっている時に、主人公が思ったのと同じことを私も思ったんです。施術してくれた女性に「このレーザーは黒いものだけを燃やすんです」と言われて、「じゃあ、金髪の人は燃えないんですか?」「燃えないです」と。その瞬間ドキッとして。まるで特定の人種だけに効果がある兵器みたいなものだなと思いました。例えば、残酷すぎて禁止になった兵器があるというけれど、兵器の存在それ自体が残酷だろうと思ったんです。「残酷すぎるから」とかそんなグラデーションではなく、なんであれ、兵器を使って痛めつけて殺そうとしている時点でおかしいじゃないですか。そもそも人間が痛い思いをせずに済む、そんな世界はないのだろうか、という思いと、卑近な自分の痛みが繫がって、あの短編になりました。
がんについて改めて考えたり、感じ直してみたかった
―― 本書には、乳がんを題材に扱った作品も三編含まれています。『くもをさがす』で克明に記録されていますが、西さんがカナダで乳がんを宣告されたのは二〇二一年八月一七日。とすると、がんの治療中に作品を執筆していたことになりますよね。
書いていた時のことは全然覚えていなかったので、初出を確認して自分でもびっくりしました。「治療中、こんなに働いてたんだ!」って(笑)。当時は締め切りがあったわけでもないですし、完全に自発的に書いたものだったと思うんです。『くもをさがす』の元になった文章も、いつか誰かに読んでもらおうという意識もなく治療中に書いていたものなんですが、それとは別にやっぱり小説が書きたかったのかもしれません。
―― 同じ題材を元にフィクションで書いてみたいものがあった?
がんを扱った物語はどれも、自分の体験から生まれた種を、自分とは違う人生を生きている女性たちの中に埋め込んで、それぞれの物語を育ててもらいました。そうすることで、私と共にあったがんというものについて改めて考えたり、感じ直したりしてみたかったんだと思うんです。例えば「あなたの中から」(「すばる」二〇二二年四月号)の主人公は、容姿に異様なほどコンプレックスがあって、というより持たされていて、人にどう見られるかばかり気にして生きてきた女性です。これは一編目の「わたしに会いたい」で書いたことでもあるんですが、自分のことを一番知っているのは自分のはずで、自分の命を一番大切にしているのも自分のはずなんだけれども、いつの間にかその一部が他者に委ねられている。彼女の場合は特に、ほぼ全てを他者に委ねていた人生だった。そんな彼女が自分ではコントロール出来ない病気になったら、どんな景色を見ることになるだろうと想像していきました。
―― そう聞くとネガティブ一色の情景が広がるのかと想像する方がほとんどだと思うんですが、違いますよね。
これは私自身の経験から得た本当に個人的な感覚なんですが、乳がんは私に、本質的なことを教えてくれたという気がしているんです。それを、彼女にも経験してほしいという気持ちがあったのかもしれません。
――「あらわ」(「すばる」二〇二二年七月号)は、両乳房の全摘出手術を受けた二八歳の
書きながら「この子、素敵。かっこいい!」って、とても頼もしかったです。私はもともとブラジャーが必要ないぐらいちっちゃい胸だったんですけど、大きな胸を持っていて、それがあなたのアイデンティティだと周囲に言われている子が胸を失ったらどうなるだろう、と思ったんですよね。ただ、彼女は自分がエロい存在であることにすごく誇りを持っているんだけれども、そのエロさが一組のパーツに集中していると思われていることに対して全然納得がいってない。もっと言うと、女の子のグラビアなどでよくある「乳首見えた、見えない問題」なんかバカバカしいと思っている。もし自分と違う胸にセクシャルなものを感じるのであれば、その対象は乳房であるはずじゃないですか。男性と女性で違うのは乳房で、乳首があるのは一緒ですよね。なのに、どうして女性に関してだけは乳首が見えた、見えないで大騒ぎするのか。その辺りの、私自身ずっと疑問に思っていた乳首にまつわるいろいろな不思議さを、あらわちゃんにぶっ飛ばしてもらった感じです。
―― 本書全体を通して、「恥ずかしい」という感情がさまざまな場面で描かれている気がしました。日本人には恥の文化があるとよく言われますが、SNSなどを通して伝達される、それは恥ずかしいことだよ、恥ずかしがれよという圧は、現代社会特有の暴力だと感じたんです。
人にひどいこと言っちゃって恥ずかしいなとか、自分で恥を感じることもいっぱいあります。ただ、本当に自分が自分の体をきちんとコントロールしていて、自分を肯定していて、自分の人生を歩んでいたら、自分の中からは基本的にあまり浮かんでくる感情じゃない気がするんですよね。そう考えると、恥ずかしさって結構他者から手渡される感情なのではないでしょうか。そういう
ノンフィクションより、
小説のほうが真実かもしれない?
―― そして、『くもをさがす』を読んだ方にオススメしたいのが、「Crazy in Love」(「文藝」二〇二二年秋季号)です。『くもをさがす』で描かれていた、カナダの病院で手術開始を待つ西さんの身に降りかかった一連の出来事が小説の形で語り直されている。主人公は、名前こそ「
金原ひとみさんが責任編集を務める「特集私小説」に参加しませんか、と声をかけていただいたんです。最初は、『くもをさがす』にも出てくるがん仲間のコニーが「人生の目標がないから小説を書き始めたんだ」と話していたことを思い出して、そのエピソードは私小説というテーマと合うんじゃないかと思ったんだけど、いや、それはコニーのこと、私は私のことを書くべきだ、と考え直したんです。自分のがんについて改めて振り返ってみた時に、書きたいのはやっぱりあの瞬間のことだなと思ったんですよね。「何してくれてんねん!」はもちろんあったけど(笑)、「何やろ、これ? なんでこんなに清々しいんやろう」って思ったんですよ。
―― 手術直前に他の患者と名前を間違えられるという大トラブルが勃発するんだけれども……と。間もなく手術が始まるとは思えない祝祭感は『くもをさがす』でも記録されていたものですが、小説ならではのマジックがいくつも振り掛けられていますよね。例えば、間違えられた名前は、実際はボニータでしたが、小説ではビヨンセになっています。この変更の意図とは?
現実もドラマチックだけど、それをもっとポップなドラマにしたかったんです。自分が間違えられたって分かった瞬間に頭の中で鳴り出した音楽は、現実ではア・トライブ・コールド・クエストの「Bonita Applebum」で、それは私の大好きな曲だったんですよ。でも、小説で書くんだったらビヨンセの「Crazy in Love」のほうが、リズムが合うんじゃないかと思って。実在の人が関わっている出来事なので、『くもをさがす』では消したけれども、小説では違う形で残っているノンフィクションの部分があったりもします。読み比べてみて「あれっ、こんなふうに書いている」とか「小説のほうが真実かもしれない?」と、現実とフィクションの関係に思いを巡らせていただけたら嬉しいですね。
ポリコレ的に正しくても、
優しくなかった反省を込めて
――『くもをさがす』の中で、西さんはカナダで格闘技を習い始めたと書かれていました。「ママと戦う」(「文藝」二〇二二年春季号)は、その経験が物語の種になったのでしょうか?
それが種でしたね。特に理由もなく衝動で柔術の教室に飛び込んでみたら、スパーリングの時に先生から何度も「サバイブ!」と言われたんです。「生き延びろ!」と何度も言われて、私も必死でやったんです。それがものすごく印象に残っていました。翻訳者と喋っていて面白かったのは、これがウィズなのか、バーサスなのか、ということ。日本語の「ママと戦う」って、どっちにも解釈できるんです。「ママという相手と戦う」にもできるし、「ママと共に戦う」にもできる。それは意図して書きました。これはママとバーサスで戦う話でもあるけれど、ママとウィズで共に世界と戦っていく話でもあるということです。
―― コロナ禍真っ只中、都内のマンションでエッセイストのママと二人暮らしをしている一七歳の女の子・モモが主人公です。彼女は高校に進学せず、家に籠って日々をやり過ごしている。ママは愛情深いんですが、どうしようもなく間違っている部分がありました。〈ママがずっと欲しかった言葉と、私が今欲しい言葉は違うのに〉。何故こんなふうにすれ違ってしまい、何をきっかけにどう変わるのか。二人の関係性を真摯に見つめていきます。
いわゆるポリティカルコレクトネス的に正しいことは全然言えないけど、優しい人っているじゃないですか。「ママと戦う」のママはまさにそういう人だったんだけれども、大人としてもっと正しくなろうとして逆に、娘に対してどんどん距離を作ってしまう。ここにも私自身の感覚が反映されています。自分も最近、自分の中の正しさを求めすぎることで、優しくなくなってしまっているんじゃないか。間違った言葉でもいいからかけて、抱き締めたほうが良かったこともいっぱいあったんじゃないかな、と思うことがあって。その逆に、「ママと戦う」のママと不倫していた男性が妊娠を知らされた時、「君の体は君だけの、大切な体なんだ」と、一見正しい言葉を言います。その正しい言葉を使って逃げるんです。彼のように、私も正しい言葉を使って、優しさを放棄する瞬間がある。自分への反省の意味を込めて、書きました。
―― ただ、これもまたラストで、とてつもなくパワフルで光に溢れた場所まで駆け上がっていくんですよね。最終編「チェンジ」(書き下ろし)の光の見出し方も素晴らしかった。昼間はアパレル店員として、夜はデリバリーヘルス嬢として働く主人公の話ですが、自分を絶望させた言葉を自分の武器に作り変えていくんです。
カナダで日本のコロナ禍のニュースを知るにつけ、腹が立って仕方がなかったんです。都民、国民にひたすら負担をかけて変わらせようとするけれど、「変わるのはそっちだろ。都だろ、国だろ!」って怒りを覚えたんですよね。でも、そういう怒りを持った主人公を書いている私自身は、バンクーバーの、ソーシャルディスタンスがナチュラルにできているような、余裕のあるエリアで暮らしている。自分自身に対して「どういうつもりでこれ書いてんねん」という思いはずっとありました。だから、自分を最後に一発殴るつもりで、ある場面を描写しました。
―― コロナ禍で感じたことと、カナダで過ごしたこと、がんのこと……。執筆期間中に起きたことや考えていたことが、一つ一つの物語の種になっていったんですね。
短編って書いたその時のことが随分と入ってくるものなんだなって、今日お話ししながら痛感しました。それと同時に思うのは、例えば「わたしに会いたい」を書いている時に、自分が乳がんになるなんて思わなかったんですよ。でも、予言ってわけでもないんですけど、後で自分の体や人生で起こることに対してこういうふうに考えればいいんじゃないかなって、準備していたというか、未来の自分に教えてくれていた感じがするんです。読み返していて、そこがすごく面白かった。心強かったです。
―― この一冊は効きが強いぞ、と感じたんですよ。ゴールテープを切る直前の駆け上がり感、そこで炸裂するメッセージは、長編であれば基本的に一回だけしか表現できません。でも、今回の短編集であれば八回も経験できる。その過程で、本書全体に通底するメッセージが濃く輪郭づけられていく感触があったんです。
そう思っていただけたら、とても嬉しいです。短編の名手と呼ばれる方が書くものも好きなんですが、普段は長編を書いている方が書く短編を読むことも好きなんですね。例えば、私はアリ・スミスというイギリスの作家が好きで、彼女は基本的に長編を書いているんですが、アリ・スミスの短編集を読むとアリ・スミス性に矢継ぎ早に会えるんですよ。すっごいぜいたくな感じがするんです。この本でも、短編全てに私性がどうしようもなく現れていると思います。結局、それぞれの短編で、いろいろな角度から同じことを言っているんだと思うんです。自分の体は自分のもの。自分の体は一つだということ、自分の体を自分のものにするということを、手を替え品を替え言い続けている。長編であれ短編であれ、私はそのことをこれからもずっと書き続けていくんだろうなと思います。
西加奈子
にし・かなこ●作家。
1977年テヘラン生まれ、大阪育ち。2004年に『あおい』でデビュー。07年『通天閣』で織田作之助賞、13年『ふくわらい』で河合隼雄物語賞、15年に『サラバ!』で直木賞を受賞。他の著書に『i』『おまじない』『夜が明ける』等多数。