[特集インタビュー]
縛られてこその自由、
十七音の底力を感じる
本誌連載の「才人と俳人」(二〇二〇年九月号~二〇二三年二月号)が単行本として刊行されます。「俳人」の堀本裕樹さんが毎回兼題を提示して、それに応えてまずは各界の「才人」たちが句を
このような形式の句づくりははじめてだったという堀本さんにお話を伺いました。
聞き手・構成=増子信一/撮影=冨永智子
モノローグではなくダイアローグ
―― 単行本用に語り下ろされた又吉直樹さんとの対談「才人と合気道」の中で、「季語のイメージを深く掘り下げると、いろんな記憶や感情に行き着く。この連載でもそういう役割を果たしてくれて、なおかつ、僕とゲストをつないでくれました」とありますが、たしかに、ゲストの方も堀本さんも、遠い記憶を呼び覚ますような句が多い気がします。
又吉さんとの共著『芸人と俳人』(集英社文庫)の中で又吉さんとも話しましたが、季語って、僕らが持っている思い出や記憶を掘り下げてくれるというか、ある情景を思い出させてくれる一つのキーワードなんじゃないかと思います。
ですから、ゲストの方もある兼題をもらったときに昔の懐かしい風景が浮かんできて、それを一句に詠んだりしたのだと思います。穂村弘さんの「若き父母ありし日のわが夏帽子」という句も、「夏帽子」という題から、穂村さんが、昔、帽子をかぶるのが嫌いだったという記憶を
―― 今回は、最初に堀本さんからゲストの方に兼題となる複数の季語を示して、それをゲストの方が選ぶ。ゲストの句とエッセイを読まれた上で堀本さんがまた句をつくり、エッセイを書く、そういう構造になっています。連歌、連句のような共同作業による掛け合いがとても面白く感じました。
現代の俳句は、一人一人が個々でつくるというモノローグになっている、もしくはなりがちだと思うのですけれども、今回のゲストと僕のやりとりはモノローグではなくダイアローグなんじゃないかと思います。ゲストの一句もしくはエッセイから僕なりにいろいろ感じ取って、どういう形で一句に落とし込むかとか、影響の受け方とか、十人十色で、いろんな形で触発されながら僕の一句ができた。そういう意味では、ゲストの方より僕のほうがダイアローグの部分を強く感じていたと思いますね。
―― ダイアローグであると同時に、
毎回ドキドキの部分はありましたね。僕が二つなり三つなり出した季語からゲストが何を選び、そこからどういう句が生まれるのか。僕は僕でそれを受けて書かないといけないので、ゲストの俳句とエッセイが出てくるまでは本当にドキドキで、そろそろ来るかな、来るかなみたいな感じで……。
―― しかも、これまでの多くの連載の中で一番締切りが短かった!
ゲストの句とエッセイが届いてから締切りまで、大体一週間から十日ぐらいは見てもらっていたんですけど、ただ、一週間から十日というのも、考えたらすごく短いじゃないですか。ですから、毎回かなり追い込まれる気がしていました。ゲストの方の句とエッセイを読んで、瞬発的に感じたことをすぐ俳句モードにして、携帯か何かに浮かんだ句を書き留める。一句を書き留めればエッセイというのは広がってくるので、まずどう受けるかという一句をきちんと完成させないといけない。
ゲストの方も、堀本はどういう句を返すのだろうかと思われるわけですから、「ああ、そうか、こういう句で来たのか」と面白がってもらえるような一句で返したいというのがありました。瞬発力で一句を書きながらも、ちょっとゲストのお顔を思い浮かべながら詠んでいたというのはありますね。
―― 加藤諒さんがお祭りで迷子になったときの思い出を詠んだちょっとコミカルな感じの句(「布団干す
はいはい、ありましたね。打ち返し方も、いつも同じパターンだと芸がないし、僕もやりたくなかったので、どう打ち返すかというのはけっこう考えました。
―― 堀本さんは、いろいろな形式で句づくりをされてきたと思いますが、その中でも今回の形式はかなり独特なものだったのでしょうか。
独特ですね。こういう句づくりはしたことないですね。先ほどもいったように、ゲストの一句やエッセイが自分の中に眠っている記憶とか、思い出とか、いま感じていることを呼び覚ましてくれる。自分の中に、そういう言葉や一句が眠っていたんだなあというのをゲストに気づかされるみたいなところはありましたね。
ふだん独りで、それこそモノローグでつくっていると浮かばないようなイメージや句が、ゲストの一つのワードによって広がったり、一句全体からすごく刺激される。たとえば、第一回の小林聡美さんの「新涼や寄席に
個性豊かな人たちの思いを受け止める
―― それぞれの兼題は、ゲストの方のイメージを浮かべながら選ばれたのでしょうか。
そうですね。なんとなくその人のお顔とか、たたずまいとか、職業であったりとか、そういうところから連想されるような季語を選んで提示しました。
―― 川上弘美さんが「
それに応えてくださった川上さんの一句(「
俳句は「世界一短い詩」といわれるほど、わずか十七音の短い言葉なので、その人なりの思いで、僕が出した兼題に集中して詠もうとすると、その人そのものの一句が出てくるときもあるし、なんとなくやっぱりその人の雰囲気をまとっている一句が出てきたり、なるほどなあと感心しました。それはうまいとかへたとかを超えた、その人ならではの一句なんですよね。
そういう意味でいえば、今回お声をかけさせていただいたゲストの方々は、本当にみなさん個性の光る方たちだというのが、一句を見ても、エッセイを読んでも感じましたね。
つまり、俳句というのは、プロの俳人が特別に囲い込んで先鋭的に詠むというものじゃなくて大衆文芸なんだということを、今回のゲストの方々の俳句を読みつつ、改めて思いました。それに、これだけの個性豊かな才人たちの思いをしっかりと受け止めてくれる俳句の懐の広さ、十七音の底力をすごく感じました。
―― 定型というとちょっと窮屈なようですけれども、実は、定型だからこそ、いまおっしゃったような思いや個性が出てくる。定型の強さみたいなものを読んでいて感じました。
縛られてこその自由みたいなものもあると思うんですよ。ただ自由に詠みなさいといわれるとすごい苦労すると思うんですけれども、五七五、十七音で季語を入れて詠んでくださいという縛りの中から自由が生まれるということですね。
―― ふだん俳句に接していなくても、この連載を読んで、俳句って面白いんだと思われた人も多いと思います。
ゲストと僕のやり取りで、俳句の親しみやすさとか、こうやって手紙のようにやり取りできるんだという楽しさを感じていただければとってもうれしいし、ただ自分で詠むだけじゃなくて、誰かと句のやり取りをしてみようという、そういう楽しみ方もできると思います。
―― ダイアローグならではの緊張感というのもありますが、「座」というコミュニケーションツールとしても俳句というのは有効だということがわかりました。
そうですね。今回の連載で行ったのは最小の「座」だと思います。それが非常に濃密な形で一句とエッセイに凝縮されたかなあという感じがする。十人でも、二十人でも、それこそ大きな結社になると百人とか、そういう単位で句会をやっているところもありますから、座という視点で捉えると、本当にミニマムな、二人で座をこっそり楽しんだみたいな感じでしょうか。
雑誌で発表しているわけですから、公にはしているんですけれども、二人のやり取りをのぞき見るみたいな、そういう楽しみもこの本には詰まっているんじゃないのかと思います。
俳句の一味違った楽しみ方を感じてほしい
―― 読者も、次のゲストは誰だろうと楽しみにしていたようですが、ゲストの選出自体に堀本さんの交遊の広さや、俳句に対する見方の広さみたいなものも出ている気がします。
ゲストの方は、以前お会いしたことのある人が多いのですけれども、お会いしていない方もいて、ぜひこの人の俳句を読んでみたいなと思いお声がけしました。児玉雨子さんは、水道橋博士と動画で対談されているのを見て、そこで芭蕉の話をしていて、こんなに芭蕉に対して熱く語る方がいらっしゃるんだなと思い、児玉さんの一句をぜひ見てみたいなと思ったんです。そうしたら快くお引き受けいただき、本当に面白い一句が出てきた(「
―― 堀本さん憧れの片岡義男さんも出てくださった。
あれは本当にうれしかったですね。もともとすごく憧れていた作家でもあるし、僕が玉川学園の木造の安アパートに住んでいたときに、たまたま片岡さんを道でお見かけして、そのときはドキドキしながら、知らん顔して傍を通り過ぎたんです。当時、まったく声もかけられなかった片岡さんが、時を経て誌面で応えてくださったのには、すごく感動しましたね。
―― 堀本さんの句、「かのひとにこゑかけられず桜かな」も、当時の思いをストレートに詠まれています。
本当に「かのひと」でしたから。あの句は、エッセイを読むと「かのひと」が片岡義男さんだとわかりますけど、あの一句だけを取り出して読むと、「かのひと」をいろいろな人に置き換えられる。多分みなさんそれぞれかのひとっていると思うんですね。それは憧れの人であったり、好きな人であったり、別れた恋人であったり、いろんな関係性でかのひとがいると思うんですが、その人に声をかけられず、桜を見上げるという。桜も様々な思いを受け止めてくれる花ですね。
だから、俳句だけ取り出してみると、それを読む人の個々の体験から自分に引きつけて読むこともできる。それも僕は俳句の象徴性の高さであり、豊かさであり、膨らみだと思います。そういう鑑賞の仕方も、この本の楽しみ方でもあるんじゃないでしょうか。
それはすべての句にいえますね。たとえば光浦靖子さんの「運針は秩序に沈み春めけり」も、縫い物をされる方だったら、自分が何か縫っている場面とか、誰かが縫っている場面とかのイメージがぱっと浮かんだりするでしょうね。
―― 連載の最初の頃は、新型コロナウイルスの感染拡大を背景にして詠まれた句も多くありましたが、三年たったいま読むと、同じ句が違って読めるということもあります。
ええ。コロナのように社会的に非常に大きな出来事の場合、その状況を除いてみると、それはそれでまた新しい風景が広がったりするかもしれない。
―― 季語の説明があったり、堀本さんが解説の中でさまざまに俳句の説明をしてくださっているので、入門書的な役割もあります。
ゲストの方がエッセイの中で自分の俳句について軽く触れている回もあるし、説明してくれている方もいらっしゃいます。俳句の世界では自句自解といって、自分の句を自分で解くということがあります。それはそれでもちろん句を読む手助けになるんですけれども、客観的に僕が見た、他人が見たその人の一句というのを、僕が俳人の視点でちょこっとだけ解説するというか、鑑賞することも大事なんですね。
そうすることで、ゲストの方はこういう句を詠もうとしていたんだ、季語はこういうふうに生きているんだとか、読者の方が一句を読むときの手助けになればと思って、毎回簡単な説明を入れるようにしていました。
いま、俳句がNHKでも民放のバラエティーでも取り上げられたり、いろんな俳句の楽しみが提示される中で、また一味違った俳句の楽しみ方を今度の本で感じていただければうれしいですね。巻末の又吉さんとの対談も、ぜひお楽しみに。
堀本裕樹
ほりもと・ゆうき●俳人。
1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒業。俳句結社「蒼海」主宰、2016年度・19年度・22年度「NHK俳句」選者。二松学舍大学非常勤講師。句集『熊野曼陀羅』で第36回俳人協会新人賞受賞。著書に『俳句の図書室』『散歩が楽しくなる 俳句手帳』、共著に『芸人と俳人』『東京マッハ 俳句を選んで、推して、語り合う』等。近著に、第二句集『一粟』、編著を務めた猫の俳句集『猫は髭から眠るもの』、初のエッセイ『海辺の俳人』。