[本を読む]
スーフィズムの修行の体系はまさに
日本人が「道」というものに近い
スーフィズムというと、私たちは「旋回舞踏」のことをまず思い浮かべるけれども、あれは長い歴史と深みをもつこの思想と実修の体系の一つに過ぎない。スーフィズムというのは、アッラーの愛に気づくための長い修行である。
著者の山本さんからは「イスラーム世界における日本マンガ受容」について直接伺ったことがある。遠くに思えた日本文化とイスラーム文化がこと「師弟関係」と「修行」の理解において、それほど隔たりがないということを教えて頂いて、一驚を喫した。著者が日本文化論を講じているトルコでは若い人たちの間で『NARUTO』から『鬼滅の刃』に至る「若者が先達に就いてきびしい修行に耐えて超絶的な技芸を会得する」というストーリーがとても人気があるのだそうである。それはスーフィズムの伝統に
スーフィズムを著者はこう定義する。
「その中心的ストーリーは『人は弱く、間違いを犯す存在である。しかし修行者は師の助けを通じて人間の精神的完成をひたすら目指す中で、人間を見捨てず絶えず導こうとしているアッラーの愛に気づく』ことである。」(19頁)
その修行の体系はまさにわれわれが「道」というものに近い。著者は茶道に通じた人なので、茶道とスーフィズムの間に通じるところを教える。私自身は長く武道を修行してきた人間なので、「先達に導かれて進むこと」と「修行目標は無限消失点であり(誰もそこにたどりつくことはできない)」という修行の要諦は理解しているつもりである。だから、スーフィズムが瞑想、呼吸、型など具体的な技法の体系であり、何より「神と比べたら人間など
内田 樹
うちだ・たつる●思想家・武道家