[今月のエッセイ]
これは、恋文、かもしれない
猫と暮らすようになって、私はやっと愛を受けいれることができた。
幼い頃から、私は愛というものに対して窮屈さを感じていた。私にとって愛とは、与えられたらそれに見合ったなにかを返さなければいけないものだった。そういう認識だったので、心底煩わしいものだと思っていた。
そんな私は今、愛を感じて日々を過ごしている。
我が家には、六歳と五歳の二匹の猫がいる。
猫あるあるだろうが、とにかく猫は邪魔をする。私がさて頑張るぞ、と思ったときにデスクに飛び乗ってきて邪魔をしてくる。キーボードの上でごろんと寝そべり、画面を変な文字で埋め尽くす。あくまで撫でさせてやってもいいけど、と言いたげに足元で鳴く。ご飯の二時間前からストーキングがはじまったり、病院に連れていくときはめちゃくちゃ暴れて私の腕を傷だらけにしたり、キャリーの中で不満を伝えるために粗相をしたり。デスクの上の紅茶を蹴り飛ばされたり、買ってきたおやつに見向きもされなかったり、おもちゃで遊ぼうとしたら面倒くさそうな顔をされたりもする。
そのあるあるに、猫好きは「かわいい」と思うのではないだろうか。私も「もうかわいいな!」としか思わない。
だってそれが猫だから。
自由で、勝手で、甘えん坊で、マイペース。
ただ粗相に関してはさすがに「かわいい」では済ませることができなかった。ベッドのマットレスや掛け布団に、何度されたことか。真冬に羽毛布団にされたときは、クリーニングに出すにしても買い直すにしても数日布団がない状態になるので、この冬の夜をどう過ごせばいいのかと途方に暮れた。仕方ないので苦手な暖房をつけて、パーカーを着てブランケットを体に巻きつけ、夏のタオルケット二枚重ねで寝た。そんな私を見ても、猫は当然素知らぬ顔だ。猫たちには長い毛があるので、むしろ暖房をつけたことに不満そうに見えた。
なんでそんなことをするのか、なにか不満があるのか、と聞いたところで、は? という顔をされるだけだ。「ねえちょっと教えてよ。一度喋ってみてよ」と語りかけても、残念ながら喋ってくれない。当然だ。
とにかく猫にストレスのない方法で問題を回避する策を練りつつ、猫の望みを探るしかない。粗相をされそうなマットレスは立てておくようにした。遊び足りないのかと運動もさせてみた。使用している猫砂を違うものにかえた。トイレの形がダメなのかと買いかえた。トイレの数が少ないのかと増やしてみた。その結果、我が家の猫はどうやら猫砂そのものがお好きではないらしいことがわかり、ペットシーツに行き着いた。
かなり苦労したのだが、猫は相変わらずの様子で過ごしている。別にうれしそうにも感謝しているようにも見えない。ただ、粗相をしなくなっただけだ。
でもそのことに、私はすごく満たされた。
猫からの愛情を感じるときはある。けれど、それがなくても私は気にしないだろう。
これが言葉の通じる、意思疎通のできる相手であったなら、多少なりとも「なんでわかってくれないの」と口に出さずとも思う瞬間があったかもしれない。
でも猫にそんなことは微塵も思わない。
「こんなに愛しているのに」「こんなにあなたを想ってしてあげたのに」と、相手に押しつけ見返りを求めるのが、私の知っている愛だった。そんな愛が自分にもあるかもしれないと、私はずっと怖かった。
でも、我が家の猫が私を愛してなくてもいい。お礼も見返りもいらない。なくていい。猫はなにもしなくていい。ただ、私と暮らすこの家の中を快適な場所だと思ってくれたら、安全だと感じてくれたらいい。
そんなある日、ふと、私のそばで無防備にへそ天でだらしなく寝ている猫の姿を見て、これが愛か、と思った。愛は、与えるものでも与えられるものでもなく、ただ感じるものだった。そしてその愛は私を幸せにしてくれるものだった。
そう気づいたとき、私は幸福感に満たされてちょっと泣きそうになった。
うれしいことに、我が家の猫は自由気ままにのびのびと過ごしてくれている。帰宅した私を出迎えることもなく、撫でる私の手を後ろ足で押しのけ、名前を呼んでも無反応なのにおやつと口にするとぐりんと振り返る。
そしてたまに、まるで私が猫に甘えたいなと思っているのが伝わったかのように近づいてきて、寄り添ってくれる。
もしかしたら、猫は結構にんげんのことをよく見ていて、猫なりの愛をにんげんに感じてくれている――かもしれない、と想像しながら本作を書いた。私から猫への恋文、かもしれない。
櫻いいよ
さくら・いいよ●作家。
大阪府在住。2012年『君が落とした青空』でデビュー、大ヒットに。著書に『交換ウソ日記』『それでも僕らは、屋上で誰かを想っていた』『世界は「 」で満ちている』『きみに「ただいま」を言わせて』『アオハルの空と、ひとりぼっちの私たち』『星空は100年後』等。