[インタビュー]
愛って何だろう、これも愛なのか、
そう悩みながら書いていました
戦国屈指の勇将として名を馳せながら、その気の短さや嫉妬深さでも知られる細川
聞き手・構成=小元佳津江/写真=露木聡子
歪んだ愛を描いてみたい
―― 佐藤さんはこれまで歴史上の人物をテーマにした小説をいくつか書かれていますが、今回、細川忠興とその妻・ガラシャ(
デビュー作『言の葉は、残りて』では源実朝と妻の信子、二作目の『さざなみの彼方』では浅井茶々と大野治長について書きました。一作目・二作目と同じ担当編集さんだったので、彼を信頼する気持ちで「何を佐藤雫に書いてほしいですか」とお聞きしてみたんです。そしたら、いくつか挙げてくださった候補の中に「細川忠興の歪んだ愛」というのがあって、私も、これだ! と。前の二作がわりと純粋というか、きらきらしたお話だったので、今までの作品とは異なる愛の形にチャレンジする気持ちでした。
―― 忠興の歪んだ愛、切なくもぐいぐいと引き込まれました。実在の人物ではありますが、本書の中での忠興像というのは、どのように造形されていったのでしょうか。
忠興って「細川ガラシャの夫」みたいな書かれ方をしていることが多いんです。でも私は、忠興という人についてじっくり考えたかった。ネットなどでは忠興は「戦国時代のヤンデレ」なんて書かれていたりもする。勇猛果敢な名将と言われていますが、嫉妬深いことでも有名なんです。忠興は激高して容赦なく刃を振るう一方で、妻の死には涙を流し、キリスト教会葬を自らの意思で依頼する。この二面性は何なのかと。どうして彼は嫉妬深く、愛しているのに暴力的な行為に出てしまうのか。私はそこを書きたかった。忠興の弱い部分や人間らしい部分から人物像をつくっていきました。
―― 忠興はあの時代に名門細川家の長男として生まれ、それゆえの苦労もありました。本書では、父親から最初に教わったことが「散るべき時を知り、己の命を絶て」という
私生活で、そういうことを考える機会も多かったので。執筆以外の時間は、子どもに関わる職場で働いているのですが、そこで感じたのは、本当にいろんな環境の子がいるということ。当たり前のことだけど、親は子どもを選べない、そして子どもも親を選べない。生まれながらにして恵まれた環境の子もいれば、逆に、かなり大変な環境の子もいる。でも、どんな環境であっても、どの子もみんな一生懸命に生きている。それを、子どもたちに教えてもらったんです。置かれている環境はどうにもできないと言ってしまえばそれまでですが、それをつくり出しているのは何なのかといえば、この世の中、社会だったりする。そのことは忘れちゃいけないと思うから、与えられた環境の中でその人らしく精一杯生きる、ということを書きたかったんです。
―― そういった背景があったのですね。忠興も、置かれた境遇も
忠興は、生まれた家柄や環境から、感情をうまく言葉にできず、孤独な幼少期を過ごしてきました。だからこそ、初めて自分を受け入れてくれた人である玉のことは、絶対手放したくないと思ったんだろうなと。それが、嫉妬深さにつながり、物語の中盤以降の彼の歪んだ愛になっていってしまうんですけど。読者の方に忠興を好きになってほしい、というのが私の中での大前提なので、彼の感情の推移はきちんと描きました。彼の残忍な面に「うわあ……」と思いつつ、その激情の中にある孤独に読者の方がキュンとしてくださったら、私のたくらみ通りかと(笑)。
愛に苦しんだ一人の女性としての細川ガラシャ
―― その忠興の最愛の人である玉は、ある意味忠興とは対照的な性格です。はっきりしていて気持ちのよい、実にチャーミングな女性ですね。
玉――洗礼後は「ガラシャ」になりますが、細川ガラシャというと先行作品や歴史的なイメージは敬虔なクリスチャン、夫に従う妻、といった感じかと思います。でも、私が書きたいのはそういう彼女ではなく、あくまで忠興から見た玉、愛に苦しんだ一人の女性としての玉でした。もちろんキリスト教についても勉強し、キリスト教信者の方や、敬虔なクリスチャンとしてのガラシャが好きな方が読んでも違和感がないよう意識しましたが、そこを前面に出すのではなく、一人の女性としての生き方を書きたかった。
―― まさに愛に苦しみ抜いたといえる玉の生涯ですが、玉の忠興への愛も、忠興の玉への愛も、物語の局面ごとに変化していき、そこが本書の読みどころの一つになっていますね。
玉は、最初の頃は、忠興のことを好きになろうと努力している「いい子」の玉なんですよね。でも、本能寺の変を機に、自分にとって一番大切なものが何なのかを考えたと思うんです。その結果、忠興に対して離縁を申し出た。それは、
キリスト教に入信し、自害した理由を再解釈
―― そうした苦悩の中で、玉はキリスト教に入信します。
玉の入信をどう描くかはすごく悩みました。最初は、キリスト教の教義をつらつら書いて、だから入信するのだと説得するような書き方になってしまって。でも、説得ではなく、共感できるように書かないと玉が生きた玉にならない。歴史上の「細川ガラシャ」のままになってしまう。それで、彼女の内面の変化にとことん目を向けていきました。
玉は、自分が求めているのは忠興の独りよがりな愛じゃなく、父・光秀が与えてくれた愛、つまり全てを受け入れてくれる愛だと気づいた。やっぱりそれが、入信の一番の動機だったのではないかと。だから、もし光秀の思いともつながるものをキリスト教の中に見つけられたなら、玉の気持ちはきっと固まるだろうと思ったんです。
―― 人の優しさや光秀の思いの象徴として、本書では「
ありがとうございます。明智家の家紋の水色桔梗、青い桔梗の色から着想を得て、玉にとっての青って何だろうと考えていくうちに、父親が教えてくれた優しさや愛の象徴がそれなのだとわかってきたんです。
そのうえで、水色桔梗の青色を読者にも伝わるように、空の青と重ね合わせて書きました。でも、いわゆる空の青、晴れた青空だとイメージが違う。いろいろ考えていたときに、私、夕空の青い色が好きだったなと思い出しまして。以前、仕事で大失敗をして帰った日の電車から見た、夜が来る前の空の青色がすごくきれいで、失敗なんて全て許してくれるような色だったんですよ。それで、夕空の色とかけた優しい青色のモチーフを入れていきました。
―― ガラシャとなった玉は物語の終盤、史実でも有名な壮絶な死を迎えます。関ヶ原の戦いの中、忠興の妻であった彼女は敵方から人質に取られることがあれば自害するよう、忠興から言われていた。一方、キリシタンであった彼女にとって自害は罪。進退窮まり悩む彼女に、宣教師オルガンティーノが救いの解釈を伝え、最終的には家臣の介錯によって自害を選びます。本書ではこの場面も、従来の見方とは異なる、より胸に迫るラストになっていました。
ここも、とても難しくて。従来のガラシャ像ですと、キリスト教の教義や夫の言いつけを守って死を選ぶ彼女は敬虔で美しい、というものかと思いますが、それだと現代の読者には共感してもらえないだろうと思いました。それで、教義や夫の命令だからではなく、自分はどうしたいのかを彼女自身に考えてほしかった。もちろん、史実は変えられないので、史実のモチーフや言葉を用いつつ、私なりにその解釈を変えてみようと。それで、あのようなラストになりました。私は本当はこれが書きたかったんだな、というのが、書いていくうちに出てきた感じでした。
忠興と玉の愛、キリスト教の愛――愛って何?
―― 本書では、忠興とガラシャのほかにも魅力的な人物が多数登場しますね。誰か、思い入れのある人物はいますか。
忠興と玉の娘・
後半、長を助けるために忠興が命を懸ける場面もありますが、父と娘の愛があるからこそ、玉に対しても、歪んだ愛なりにきちんと愛そうとする忠興になっていく。そういう意味で長は、忠興を変えていくキーパーソンなんだと思いますね。
―― 確かに、父親としての忠興はまた別の顔があり、魅力や深みが増していると感じました。
それは、私が忠興を大好きになった結果かと(笑)。不器用なところ、弱いところ、それをうまく表現できないところ。そのもどかしさゆえに出てしまう暴力が哀れで。暴力は許されませんが、忠興の抱える哀しみは書けば書くほど愛おしくなってしまいました。
実は、本書を書いているさなかに、私、離婚をしたんです。だから本書には、自分が離婚に向かうときの気持ちや、いざ離婚となったあとの苦しみや罪悪感も反映されていますね。愛って何だろう、これも愛なのか、と悩みながら書いていました。
特に、ラストシーンでは忠興と玉の愛の到達点を表現したかったので、本当に悩みました。私自身の結婚は破綻してしまったからこそ、作中の彼らは破綻させたくないなと思ったり。いろいろ葛藤しながら書いていたら、無意識に歯を食いしばっていたみたいで、歯並びが変わっちゃったんですよ。それで、前歯を
―― ええっ、それは壮絶な……。これも愛なのか、というのは確かにかなり重いテーマですよね。
愛って一言で言うけど、いろんな愛があって。もちろん逃げていいものもあるし、受け止めないといけないものもある。応えられる愛と応えられない愛がある、だからこそ人を愛するってどういうことなんだろう、と。
―― やはり、そうした愛と、ガラシャが求めたキリスト教の愛というのは対極にある印象ですね。
そうですね。これは本当に全く違っていて、私自身がキリスト教徒ではないので、キリスト教の勉強をしっかりしないと書けないなと思い、教会にも取材に行かせてもらいました。カトリック教会のミサに初めて参加したんですが、皆さんとても優しくて、教会の中全体が目に見えない愛に包まれているような雰囲気でした。初めての人も、家族のように受け入れてくださるのが新鮮で。これがキリスト教でいう愛なのかというのは、教会に行ったからこそ得られた感覚で、それにより書けたシーンも多いですね。
また、神父さんにお話を伺い、キリスト教の愛とはどんなものなのか、なぜ自殺や離婚を禁じてきたのかなど、聖書の内容をふまえて具体的に教えていただきました。
苦しかったぶん、書きたいものが書けた
―― タイトル『花散るまえに』も、決定までにかなり悩まれたと伺いました。
このタイトルは、玉の辞世の句「散りぬべき時しりてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」をベースにしています。この歌は通常の解釈では、自分は今が死ぬべきときだという玉の決意の歌ということになっている。でも私は、忠興が父親から受けた最初の教えであり、彼の呪縛ともなっていた自刃の作法「散るべき時を知り、己の命を絶て」ともつなげる形にしたかったので、ここも私なりに大きく解釈を変えてしまいました。最終的に、玉が忠興の愛に対して出した答えとしての歌にしたかったんです。それを受け、忠興も玉に対し、一つの大きな想いを抱く。タイトルも、物語の結論ともいえるそのシーンを象徴するものがいいと思い、このようになりました。すごく悩んだのですが、最後は自分でも納得のいくものが出せてよかったなと思っています。
―― 本当に悩みに悩み抜かれての一冊ということですね。
愛ってなんなのか、考え悩みながら書くのは本当にしんどくて、途中で書けないかもしれない、もうダメかもしれないと何度も思いました。今までの作品の中で一番苦しかったですね。でも、自分で言うのもおかしいですが、苦しかったぶん、書きたいものが書けたかなとも思っています。
書かれているのは戦国時代の話ですが、歴史小説だからと身構えないでいただけたらなと。歴史上の人物でも、悩んだり、笑ったり、泣いたり、人を好きになったりという感情の部分は今の私たちと変わらないということを、本書を読みながら感じていただけたらうれしいです。
佐藤雫
さとう・しずく●作家。
1988年香川県生まれ。2019年、『言の葉は、残りて』(「海の匂い」改題)で第32回小説すばる新人賞を受賞してデビュー。著書に『さざなみの彼方』『白蕾記』がある。