[本を読む]
変わらなければいけないのは誰か
自分は男性として生まれ、男性として生きている。いや、それでは説明不足。本書の文言に頼ると、「生まれたときに割り当てられた性別の通りに自身のジェンダーアイデンティティを獲得していき、それを安定的に保持して」いるのが自分だ。多くの人がこの状態にある。それを前提だと考えて日々を過ごす。同時に、その前提を持たない人を特別な状態だと考えてしまう。
生まれたときの性別を私たちは選べない。自分から母に「男でよろしく」と頼んだわけではない。そんな自分は「男性であること」を引き受けた。不自由なく快適に暮らしている。でも、それはたまたまだ。
今、トランスジェンダーの人たちは、自分と同じような過ごしやすい場を獲得できていない。そればかりか、極めて乱暴な言い草を浴び続けている。「『場』ごとにどのような性別が認識されているのか、その決定権を握る要素は『場』ごとに異なっているということです」とある。たとえ、働いているオフィスでは難なく過ごせても、駅では、デパートでは、家では、同窓会では、テレビドラマでは……異なる場に踏み入れる度、不安を覚える。
場のあり方を決める権限を持つ人間が変わらなければいけない。これは、「トランスジェンダーではない人たちが受け止めるべき問題」なのだ。そろそろ権利を認めてあげましょう、ではない。当事者ではなく、「ではない人たち」の問題なのだ。
メディアの中枢で権限を持っている多くはシスジェンダーでヘテロセクシャルの男性たち。ただでさえ自己保身に走りやすい人たちは、今、場が与えられていない人に場を用意する余裕を持たない。本書の後半に「トランスジェンダーが何を求めているか」が列挙されている。
「身体の自律性を持つこと。身体の統合性を侵害されないこと」「性と生殖について自己決定権を持つこと」、まずこの2項目。では、あといくつ並んでいるか。14項目だ。本書を開いて確認してほしい。繰り返すが、この複数の課題を解決するのはトランスジェンダーではない人たちである。
武田砂鉄
たけだ・さてつ●ライター