[特集インタビュー]
“曖昧な状態に耐える”
というのが人生のテーマの一つ
五月に『
『夜果つるところ』は過去に三度も映像化が進行したものの、そのたびに関係者が死亡し、一度も完成したことがなく“呪われた作品”とされている小説。『鈍色幻視行』はその謎に興味を覚え、これを題材に作品を書いてみたいという思いに駆られた作家が、関係者の勢揃いする場として計画された船旅に参加し、その謎を解明しようとする様子を描いています。恩田陸さんが二つの小説を立ち上げた出発点、なぜこのような作中作構成になったのか、実際の船旅取材で得た材料をどう活かしたのかなど、小説世界を形作ってきた道のりやそこに込めた思いについて伺いました。
聞き手・構成=綿貫あかね/撮影=神ノ川智早
この二作品は『遊廓の少年』へのオマージュ
―― 『鈍色幻視行』の連載が始まったのは十六年も前です。
かなり時間が経っているんですよね。だからこの小説を書くきっかけが何だったのか、やや忘れかけていたのですが、先日ようやく思い出しました。以前、辻中剛という作家の『遊廓の少年』を面白く読んだのですが、その本には「今村昌平監督映画化を断念!」という帯が巻いてあったんです。なぜ断念したのかはわからずじまいなのですが、その惹句が帯になっているところに目を惹かれました。今回の二つの作品は、この本をモデルにしたところがあります。『遊廓の少年』へのオマージュが『夜果つるところ』で、それを映画化しようとして断念したというエピソードが『鈍色幻視行』になった、というかたちです。
―― 『鈍色幻視行』の連載の中断中に『夜果つるところ』が書かれました。その間には何があったのでしょうか。
作中作というのは一度やってみたかった構成でした。『鈍色幻視行』の第五章には、『夜果つるところ』の第一章と第二章がそのまますっぽりと収まっています。この二作品は同時進行させるつもりで取り掛かったのですが、『鈍色幻視行』の第五章として『夜果つるところ』の冒頭を書いているときに、これは先に『夜果つるところ』を完成させた方がいいのでは、という気持ちになりました。そこで『鈍色幻視行』の連載は一旦中断して『夜果つるところ』に集中し、完成させてから連載を再開させました。
これまで作中作に触れたことはあったのですが、一つの作品の中に独立した別の作品を丸ごと関係させるというのは未体験でした。今回は本格的にメタフィクションをやってみたい、というチャレンジが実を結びました。
―― 『鈍色幻視行』は、主に作家の
この小説を書くもう一つの動機は、船旅をしてみたかったから、というやや不純な気持ちもありました。当時取材のために、年末の忙しいタイミングに二週間の日程で担当編集者と船に乗りました。出発の二日前までは徹夜状態。神戸から出航するので初めは新幹線に乗ったのですが、私があまりにバタバタしているので、東京駅の新幹線ホームで、担当編集者が心配して真っ青な顔で待っていたのを覚えています。
物語に出てくる航路はそのときと同じで、中国のアモイやベトナムのハロン湾を巡るコース。当時まだ船内は衛星回線で、船のメールアドレスはあるのですが、外洋に出てしばらくすると通じなくなる。だからつながるギリギリまで各所とメールでやりとりしていましたね。上陸している時間は案外と短く、ほぼ毎日船の中にいるので、本当に密室状態でした。
創作することにいまだに強い憧れがある
―― 船に集められた関係者は、雅春の従姉妹で漫画家の
これが、書き進めていると不思議とどんどん出てくるんですよ。この人を登場させようと事前に考えることはなくて、キャラクターが勝手に登場してくる感じ。この作品で好きだったのは、武井京太郎の恋人のQちゃんです。
―― 関係者はほぼ全員が何かの創作者です。『鈍色幻視行』は、船に関係者を集めて謎を解く、という一見古典的な密室ミステリのような顔をしていますが、創作者たち全員のヒューマンドラマともいえます。もの作りに携わる人の物語を書くというのは、どのような意味があったのでしょうか。
作中には映画制作者や漫画家とさまざまな創作者が出てきて、結局虚構を作るとはどういうことなのか、という話になっています。雅春や武井京太郎が「真実があるのは、虚構の中だけだ」と言うシーンがありますが、これは私の実感するところでもありますね。
また、創作するということに、いまだにものすごく憧れの感情があって、自分がプロの書き手になった実感があまりないんです。ものを作るとはどういうことなのかは常にいろいろ考えていますが、今回は振り返ってみると、その発露の仕方について書いてみたかったんだと思います。
―― 前半、船上のウエルカム・パーティでの顔合わせのシーンは、何かが起こるのではと思わせる古典ミステリでは定番の場面。『夜果つるところ』の映像化のうち、一、二度目の際に何が起こったのかが語られます。各証言を擦り合わせつつ、作品が引き起こす“呪い”とは何か、飯合梓とはどんな人物だったのかを探っていく。また、雅春の元妻がなぜ自ら命を絶ったのかという謎もあります。ミステリ的要素で読者を引っ張っていく展開で、さらに可読性も高くどんどん読ませます。
隔絶された場所で関係者が一人ずつ発言するというのは、とても好きなシチュエーションです。でもこれは狭義のミステリではなく、何を謎と感じるのかという話でもある。それは私がいつも興味を感じている部分です。謎を巡る話は昔から好きで、以前はミステリ・ロマンというジャンルがありましたが、そういう雰囲気を目指してみました。
―― 作中にはアガサ・クリスティーの『鏡は横にひび割れて』など、小説や映画の引用がたくさん出てきます。取り上げられている作品のファンはたまらないし、未読の読者も「読んでみたい」、「観てみたい」と思わせる仕掛けで、これも恩田さんの作品の魅力の一つです。
『鏡は横にひび割れて』については、ネタバレしているかもしれないけれど、よく知られる古典だからいいかなと思いました。あの作品は動機が恐ろしく、今でも強いインパクトを残しています。クリスティー、恐るべし。詩織が話していた、女が手を振る描写の頻出するミラン・クンデラの小説は『不滅』ですね。これらは私が影響を受け、記憶を作っているものでもあるので、書いておきたいという気持ちがありました。
人生とは曖昧さに耐えながら営むもの
―― 謎が少しずつ解けていくなかで、実はその謎が人間の単なる思い込みや勘違いといったことが重なり合い、虚構のように仕立て上げられていたことがだんだんわかってきます。人が思う謎や疑惑、恐怖を感じるものは、意外とそのように人が自然と作り出しているのかもしれません。
梢が「みんな、どこかに真実があると思ってる。それも、卵の殻を
現実社会でも、あるときから白か黒か、敵か味方かはっきりしろという二元論的思考がより叫ばれるようになっています。でも人生というのは大体がグレーでできていて、自己か他者のどちらの目で見ているか、でしかない。だからグレーの状態、つまり“曖昧な状態に耐える”というのが、私の人生のテーマの一つでもあるんです。タイトルの“鈍色”は、グレーという曖昧な状態を表した、ともいえます。
―― 梢も、真実なんてパレードで降ってくる紙吹雪みたいなもので、綺麗なまとまりのある実体じゃない、と言っています。雅春が褒めているように、この紙吹雪の比喩は素敵でした。“曖昧な状態に耐える”というのは十九世紀の詩人のジョン・キーツが記述し、今ケアの現場や文学の世界などでよく耳にするネガティブ・ケイパビリティと同義。二元論がはびこる今日に、まさに求められている言葉です。
以前、鴻上尚史さんがおっしゃっていたことがあります。役者によっては最初の舞台がうまくいかないとすぐに諦めてしまうけれど、それはよくない。人生は百点か〇点かではない。大体平均点すれすれで生きているのが人生なんだ、と。それを聞いてそのとおりだなと思いました。曖昧で、すかっとしない、ぱっとしないところで何とかぎりぎりでやっていくのが人生。『鈍色幻視行』は、そういう私自身がずっと持っているテーマの一つについて書いたともいえます。
―― この“曖昧な状態に耐える”という思想が物語に通底しているのは、最初から意識していたのでしょうか。
そういうわけではありません。書き終わってみないと自分でも何を考えて書いていたのかはわからないんです。最後になって、ようやくそういうことだったんだと納得感が湧いてくる。今回の作品では、みんなで曖昧さに耐えて生きていこうというのが最終的なメッセージだったのではないかなと。後付けのように見えてしまいますが。
―― そういう意味でいうと、雅春の元妻は曖昧さとは正反対の完璧主義者だったから、この世に居られなくなった、ということになりませんか?
雅春の妄想かもしれないし、生きている人の自己満足にすぎないともいえますが、彼女が少し自分の弱さを認められたのではないか、と最後に推測ができた瞬間に、彼は救いを感じたのではないでしょうか。
小説を書いていることが作家の呪い
―― 先ほどの謎と同じく、呪いみたいなものも、単に人々が感情のレイヤーで作り出しているだけなのかもしれない、ということが見えてくるのですが、それが第一章の、「あたしたちは呪いを切望している。自分を縛るもの、魅入られるもの、やむにやまれず引き寄せられるものを」という梢の心の声に、最終的には戻ってくるのかなと思いました。
カタルシスはないし、曖昧な結末だと思われるかもしれませんが、現実の人生はそういうものです。立ち位置をはっきりさせろとか、結局どちらなんだと二択を迫られることが増えて、わかりやすい結論が求められる時代になり、そういう結末で終わるのはいよいよ難しくなってきたなと実感します。でも曖昧な結末は、現代において非常にリアルだし大事なこと。実際の人生や登場人物たちの生きる道も常にまだ先があるので、「結局」ではないんですね。近年は「結局」という言葉をネガティブに捉えるようになりました。
―― 梢が、自分の呪いは小説を書いていることだ、と発言しています。これは作家である恩田さん自身もそのような考えを持っているのでしょうか。
そうですね。池澤夏樹さんの著書に『読書癖』という本があるのですが、まさにこのタイトルのとおりで、癖のように何かを読んでいないと落ち着かない。創作物というのはすべて呪いだと思います。取り憑かれ、縛られる、自縄自縛的なもの。創作物は何かを呼び込むため、
―― 先ほども「書き終わってみないと、自分でも何を考えて書いていたのかはわからない」と言われていました。やはり作家の頭の中に何かが招聘されて物語が動くというのは、ある種の作家の呪いといえるのかもしれません。
最初に設計図のようなものを作ってから書き始める人もいますが、私は書きながらどうしてだろう、なぜそうなるんだろうと考え、また書いていくタイプです。梢が知りたいと願っていた飯合梓がどういう人物なのかも、実は後半に入るまでまるで見えていませんでした。でも、レストランでの場面の後に、梢が関係者に個別にインタビューをするシーンがあって、その直前までは可能性の一つとして浮かんでいただけだった飯合梓の人物像の輪郭が、話が進んでいくにつれ、やはりそうなんだとくっきりと見えてきました。
―― 何かが招聘されている、何かを呼び込むというときの“何か”は、目に見えないものと考えると、この小説にも人ではないものが登場します。生きているものと死んでいるものが交錯する物語でもあります。
取材の船旅でも怖いと思う瞬間はありました。デッキに出ると見渡す限り海しかない。あんなに広いのに何もないのは、地上ではあり得ないのでちょっと不思議な感覚でした。そして船内もとても広いのに、密室感が半端なかったですね。私にはまったく霊感がないのですが、常日頃から見えない何か、というのはあるんだろうと思っています。今見えていないだけで、科学技術がさらに発達すれば幽霊の存在も解明できるのでは、といわれていますしね。
人間の記憶は都合よく書き換えられる
―― 作中作の『夜果つるところ』は、時期ははっきり書かれていませんが、昭和初期の軍部が力を持ち始めた頃の話で、舞台は海に近い山間の娼館「
この小説は『遊廓の少年』から着想し、立ち上がったということでした。舞台や時代設定、全体の雰囲気も『遊廓の少年』から影響を受けているのでしょうか。
そうです。しかし澁澤龍彥とか谷崎潤一郎とか、そういうイメージの小説を目指そうとしたのですが、自分が書くとやはりそうはなりませんでした。でも『鈍色幻視行』では、関係者のほとんどが、『夜果つるところ』はペダンティックで耽美的なゴシックロマン小説だと思い込んでいます。しかし梢や雅春は船内で読み直して、そういう小説ではなかったと、以前読んだときとは違う感想を抱いて、自分の記憶が書き換えられていたことに驚きます。やはり昔読んだものを今読むと、大したことはなかったとか、印象が変わることも多く、これは読書好きの人によくあることですよね。
―― そうはいっても、蜘蛛の巣の模様の入った着物を羽織った久我原が、子爵の
そこは違っていて、簡単にいうと遊廓で育った男の子の話ですが、コメディタッチでブラックユーモアもある面白い小説でした。二作の出発点がこの本だったことを割と最近まで忘れていたくらいで、内容については薄れていますが、すごくインパクトがあったことは記憶に残っています。大きな仕掛けは特になかったけれど、チャーミングな物語でした。
―― 謎も呪いも記憶の
それは大いにあると思います。映画で、あの主人公がこんなことを言っていたと記憶していても、見直してみるとそんなセリフはどこにもない。あれは一体何なのでしょうね。一番ショックだったのは、モノクロの映画だと思っていたのにカラーだったとき。脳内で相当に作り替えているんでしょう。
アイデンティティの確立という問題
――『夜果つるところ』は、『鈍色幻視行』では謎の作家である飯合梓が書いたことになっています。恩田さんの設定として、梓はいつ頃書いたことになっているのでしょうか。
七〇年代ですね。藤本
―― 『鈍色幻視行』も『夜果つるところ』も、アイデンティティの問題が大きなテーマになっています。前者では飯合梓の秘密や雅春の元妻の自殺の要因、後者では角替正や武井京太郎の言うように、ビイちゃんの謎にまつわるかたちで。アイデンティティの確立を重要な主題にしたのはなぜですか?
近年、ジェンダーの問題に焦点が当たることが増えてきたのが理由の一つになります。今回の単行本化の作業の間も、ジェンダーやポリティカルコレクトネスについて、さまざまな方面から指摘が入ったのには驚きました。
読者の多くは本のページをめくるとき、著者が男性か女性かを無意識のうちに頭に入れながら読んでいるんですよね。でも正直、なぜそれほど著者の性別が気になるのかがわかりませんでした。私がデビューしたときは覆面作家だったので、名前からの想像でよく男性だといわれていましたが、そう思われることが続いて、大概の人は作品に著者の性別や属性を当てはめながら読んでいるのだと実感しました。
この二作の連載中は、ジェンダーバイアスやアンコンシャスバイアスなどが非常に問題になっている時期でした。以前から、自分のアイデンティティやジェンダーの面でのポジションなどをよく考えてきていたので、その時期に思考がより深まりました。特に小説家というのは性差なく、どちらの視点も持っている人が多いというのが私の意見。そのあたりもこの二作で触れてみたかったんです。若い作家の場合は少しずつ性差がなくなっていると思いますが、私は考えずにはいられません。やはり昭和の名残のようなものが自分のなかにあって、いまだにバイアスは大きいと感じています。
―― 小説を一人称で書くときにも「私」なのか、「僕」や「俺」なのか。それによって印象がまったく変わります。
最近ハッとしたのは、登場人物の名前を苗字で表記するか名前なのかが大きな問題だということ。女性はなぜか名前で、男性は苗字が多いという印象です。それに気づいて、こんなところにもすでにバイアスが入っていると、愕然としました。
―― この二作品はアイデンティティの問題以外にも、人間の嫉妬心、呪いとは何かなど、まったくタイプの違う作品なのにリンクしているところがたくさん見受けられます。そこに気づくと、さらに没入度が高まる。書く前に、二作に共通のテーマを設けることは考えていましたか?
“曖昧な状態に耐える”という主題と同様に、書き進めていくうちに気づきました。だからともにアイデンティティの物語になったのは、結果としてそうなったということ。作品によっては物語がもうすぐ終わるとわかるときがあって、そこに差し掛かると、こういうことだったのかと見えてくる。『鈍色幻視行』は長期連載で登場人物も多く、毎回書く前に取材ノートを読み直したり船旅の写真を見たりしてから取り掛かっていました。それでも最後に近づくと、ああそうだったんだと腑に落ちた。そこでテーマが浮かび上がってきた感じです。
本当に長かった連載でしたがようやく形になりました。私の趣味の要素が満載された二作品。二ヶ月連続で出ますので、皆さんに存分に楽しんでいただければ嬉しいです。
恩田陸
おんだ・りく
1964年宮城県出身。1992年第3回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作に選出された『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞と第2回本屋大賞、06年『ユージニア』で第59回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、07年『中庭の出来事』で第20回山本周五郎省、17年『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞と第14回本屋大賞を受賞。著書に、『スキマワラシ』『灰の劇場』『薔薇のなかの蛇』『愚かな薔薇』『なんとかしなくちゃ。青雲編』など多数。