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今月のエッセイ/本文を読む

ミサイル危機の空の下で
シンポジウム「ウクライナの核危機 林京子を読む」開催を前に

[今月のエッセイ]

ミサイル危機の空の下で

 原爆と原発に鋭い危機意識を抱いていた作家の林京子氏が亡くなってから六年が経つ。彼女の遺志が風化しないように、来たる二月二十三日に「ウクライナの核危機 林京子を読む」というシンポジウムを行うが、以下は、シンポを前にした、私の個人的な覚書だ。
『猿の惑星』(一九六八年公開)は、人類に代わって猿族が、世界の支配者となっているというディストピアを描くSF映画だが、ラストシーンの、砂浜に半ば埋もれた自由の女神像がショッキングだった。太陽系から離れた、どこか遠い天体の話だと思っていたのが「実は地球だった!」というオチである。『続・猿の惑星』(一九七〇年公開)では、人類は核戦争で滅んでおり、旧ニューヨークの地下世界で、ミュータント化した人類がわずかに生き残り、コバルト爆弾を“神”として崇めている。これも、遠い未来の、どこかかけ離れた世界の話だと思ってはならない。核ミサイルを“神”のように崇めている国は、日本の隣国をはじめとして多数存在しているし、どう考えても、そこでは健全たる人間の精神はミュータント(突然変異、奇形)化している。
 林京子の「収穫」という作品がある。都会の郊外の村で、さつまいもの収穫を楽しみにしていた老農夫は、今年の収穫は諦めなければならないと考える。なぜなら、芋畑に隣接する工場で何らかの事故が発生したようで、白い作業服の男たちが工場内をうろつき回り、水質や地質をしらべているのだからだ。井戸の水も飲んではいけない。芋の出荷などもってのほかだ。眼にも見えない、耳にも聞こえない、鼻で嗅ぐこともできない悪意のようなものが、空中に瀰漫びまんしているのだ。
 この小説を読むのに想像力はいらない。『猿の惑星』シリーズのようなSF的想像力も、終末論的なビジョンも必要はない。そこにあるのは、想像力の限界の遥か手前で現実化する悲惨さだ。バケツで放射性物質を運び、攪拌かくはんして核分裂を起こし放射線を全身に浴びた、核燃料処理工場の作業員。そんな杜撰ずさんな取り扱い方を許容した、原発村の幹部たち。放射線を防ぐのに、彼らは土囊どのうを積むだけの知恵しか持ち合わせなかったのだ。これは想像力などなんら必要としない現実的な“核脅威”である。
 架空戦記小説やパンデミック小説が、多く書かれた。日本の自衛隊がアメリカや中国や北朝鮮(やイスラム国)の軍隊と戦うものであったり、タイムスリップした自衛隊員が、戦国武将の群れと混じって戦ったり、アフリカや中東でジェノサイドに加担するような小説もあった。と思えば、敵方のミサイルが雨霰あめあられと降ってきて、都市や一国のインフラが壊滅しそうになる映画のシーンがあったり、伝染病の猖獗しようけつを防ぐために都市を完全封鎖して、ネズミの仔一匹も脱出させないという小説の一節もあった。映画も小説も、そしてマンガやアニメも、想像力の産物である。しかし、科学も政治思想も、やはり想像力の産物だった。つまり、我々が想像する限りのことはすべて現実化する。人が想像力を働かすからこそ、現実は想像通りの悲惨なものとなる。ミサイル攻撃によって、家も学校も職場も失い、着の身着のままで難民化することも、廃墟の中で飢えと寒さと渇きに震え、死滅してゆくことも、小説や映画が“想像”することができる限り、それは地球上のどこかで現実化していることなのだ。
 もちろん、それは小説や映画(やマンガやアニメ)のせいではない。ましてや、プーチンや金正恩の頭の中だけにある“狂信”のせいでもない。人間は想像したすべてのことを最終的には実現させてしまう。防衛力強化を謳いながら、日本海側にずらりと立ち並ぶ老朽化した原子力発電所を、再稼働させ、あまつさえ増設・新設もためらわぬという支離滅裂な施策を強行しようとする政府は、想像力以前の健常な判断力を失っている(聞く耳どころか、ロバの耳さえ持っていない)。
 プーチンや金正恩の頭の中では、廃墟と化した集合住居と、散乱する瓦礫と死体とが“想像”されていたはずだ。彼らはそれを現実とするために、ミサイル発射にGOサインを出す。だが、想像すらできないことが現実化された時、私たちはどんな言葉を持つことができるだろうか。
 テレビやSNSで発信されるウクライナの映像は、人間の想像力がいかに残酷な、残虐な企図を持っているかを証明している。それらはすべて一部の人間がその想像力の通りに、意志や意図の計画通りの現実を引き起こすということだ。ますます狡猾で冷酷なオランウータンやゴリラに似てきた(この比喩は、類人猿に失礼だろうか?)、帝政ロシアや金氏朝鮮の独裁者たちは、この地球を“猿の惑星”(原始時代に、火の海に)にしようとしているようだ(彼らがもっとも憎むのは、自由の女神だ!)。
 私たちは、しかし“その後”の想像力を持たない。小麦は立ち枯れし、向日葵ひまわりしぼみ、虚しく不稔の種を放った。何事も起こらない。何の変事も生起することなく、自然は自然のままに、風景は風景のままに存在している。しかし、世界はもう瀬戸物やガラスのオモチャのように壊れている。それは想像力さえ及ばない世界の終末だ。想像しないこと、それは現実を現実のままに見据えることだ。畑の芋の葉に宿った一滴の露に、数百、数千、数万ミリシーベルトの放射線が含まれている。この現実を直視せずに、空想や想像の世界へと逃げ込むことを、われわれは決して許容してはならないのである。

 講演とシンポジウム「ウクライナの核危機 林京子を読む」
 二〇二三年二月二十三日、於:神奈川近代文学館

https://www.kanabun.or.jp
※シンポジウムは文芸誌「すばる」で採録予定

川村 湊

かわむら・みなと●文芸評論家、法政大学名誉教授。
1951年北海道生まれ。著書に『南洋・樺太の日本文学』(平林たい子文学賞)『補陀落││観音信仰への旅』(伊藤整文学賞)『原発と原爆 「核」の戦後精神史』『新型コロナウイルス人災記 パンデミックの31日間』等多数。

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