[本を読む]
緊迫感あふれる物語
『チンギス紀』と「大水滸伝」は違うシリーズである、と作者自身が語っている。しかし別のシリーズではあっても、微妙に繫がっていることも事実なのだ。そこで、『水滸伝』19巻、『楊令伝』15巻、『岳飛伝』17巻の合計51巻という「大水滸伝」をこよなく愛する者としては、どういうふうに繫がっているのか、やはり確認しておきたい。
たとえば、『チンギス紀』の第2巻「鳴動」の中に、ホエルン(テムジン=のちのチンギス・カンの母)をさらったメルキト族の集落を襲う男が登場する。この段階では、これが楊令の遺児、
「おまえは、俺の息子だ、テムジン」
結局、テムジンは玄翁を斬るのだが、しばらくしてから、胡土児の従者がやってくる。胡土児が金国軍総帥、
『チンギス紀』と「大水滸伝」は別のシリーズではあるのだが、このように際どいところでゆらゆらと繫がっている。だから、「大水滸伝」を未読の方がいらっしゃるのならば、『チンギス紀』を読み終えたら、「大水滸伝」に遡ることをおすすめしたい。至福の読書があなたを待っているはずだ。
というわけで、『チンギス紀』である。『水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』が総巻数51巻で終わったとき、ようやく完結したのかと虚脱感に襲われたものだが、吹毛剣がリレーされてテムジンに渡り、新たな物語が始まるとは思ってもいなかった。「続くのかよ!」というあのときの驚きはまだ鮮明だ。いや、『チンギス紀』は別のシリーズなのだから、続くわけではないのだが、あのときはそう思った。これ、いつ終わるんだ? と。永遠に終わらないんじゃないかと。ずっと続いていくんじゃないかと。
「大水滸伝」もすごかったが、この『チンギス紀』もすごい。モンゴルの遊牧民族を統一しただけでなく、中国、中央アジア、東ヨーロッパなどを次々と征服して、広大なモンゴル帝国を作り上げたチンギス・カンの、波瀾の半生を描くというのだから、壮大な歴史小説である。それを北方謙三が描くのだ。この事実だけでノックダウンだ。
『チンギス紀』前半の山場は、第7巻「
本書第15巻で、そのマルガーシがトクトアを思い出すくだりは印象深い。あらゆるものが燃える。人の思いなどはたやすく燃え尽きる、とトクトアは言った。いまでもマルガーシはその言葉の意味を考えている。第14巻のラストは、マルガーシとチンギスの側近ムカリの鬼気せまる対決だったが、そのとき自分はジャムカだとマルガーシが名乗った意味について、父ジャムカを倒したチンギス・カンを、今度はおれが倒す、という宣言だったと、この第15巻に出てくる。そういう意味だったのか。ならば、この『チンギス紀』のラストは、チンギス・カンとマルガーシの対決だろうと思ったものの、第15巻を最後まで読むと、ホラズム国皇子ジャラールッディーンとチンギス・カンの対決こそ、この大河小説のラストにふさわしいという気がしてくる。おお、どっちなんだ。
チンギス・カンの軍団が、ホラズム・シャー国に侵攻して一年。決着はもうそろそろだろう。その戦闘の行方がこの大河小説の終着点と重なるのかどうか、いまの時点では皆目見当もつかないが、終盤直前の緊迫感が物語全体に
『チンギス紀』特設サイト
https://lp.shueisha.co.jp/kitakata/chingisuki/
北上次郎
きたがみ・じろう●文芸評論家