[今月のエッセイ]
二階からの風景
小さい頃からずっと、「天神さま」こと
なにせ生まれた時のわたしの住まいは、その名も道真公にちなむ
しかも実は大学院を出た後、一時期、働いていた私立美術館がこれまた北野天満宮のすぐそば。この館では天神さまの縁日である毎月二十五日は、来館者殺到間違いなしの繁忙日で、様々な予定が二十五日を中心に据えて組まれていた。おかげで今でもわたしは二十五日が近付くとどこか落ち着かない気持ちになるし、館のすぐ裏にある商店街に出かけると、ただいま! と言いたい気分になる。
「
そんな町の一角に、もう二十年余り、定期的に買い物に行く豆腐屋さんがある。京都市内の大型店舗の中にはこのお店の商品を扱う店もあるのだが、お店の方々の威勢のいい声が楽しくて、直接店頭に出かけてしまうのだ。
普通の豆腐はもちろんのこと、柚子や胡麻、紫蘇の入った豆腐は冷や奴で食べると最高だし、にがり(凝固剤)の少ない柔らかめの「寄せ豆腐」は豆のおいしさが強く感じられ、幾らでもつるりと食べられる。百合根や
この豆腐屋さんは北野天満宮の正面に豆腐料理のお店が入った一軒を構えていらっしゃり、そちらは毎日、お昼前からすさまじい行列が生じる。美術館で働いていた頃、上司や先輩がたが、「空いているタイミングで行きましょうよ」と誘ってくれもしたのだが、あまりの賑わいに結局機会がないまま十数年。先日ようやく初めて、念願のお店を訪ねることが出来た。
二階の窓から見おろせば、慣れ親しんだ北野天満宮の鳥居が斜めに見える。北野天満宮前はもう何十回、いや何百回と通っているのに、いまだに新しい光景を見られるとは。思いがけぬ嬉しさににこにこしながら、美味しい豆腐料理を堪能した。
今回、刊行の運びとなった『
史書に従えば、右大臣として朝廷の要職にあった道真は、
歴史事実とは後世の者の眼から見れば、ただの記録でしかない。だが過去にはそこに生き、その事実を嚙みしめた生身の人物が確かにいた。道真が大宰府で過ごした二年は、我々から見れば「二年」という数字に過ぎないが、実際にその期間を過ごした当事者からすれば、なかなか長い年月であったはずだ。
わたしは歴史小説の役割の一つは、あったかもしれない過去を等身大の形で提示することと考えている。道真が過ごした大宰府での二年。わたしが描くそれは、歴史書や通説が示す姿と異なる点も多々あろう。しかし豆腐料理屋さんの二階から眺めた天満宮の鳥居の如く、もはや分かり切っていると思われた歴史も、違う場所から眺めてみればまた新たな驚きを提示できるのではなかろうか。
ちなみに大宰府における道真公を主人公とする物語は、実は当初から三部構成を予定している。というわけで、残りはあと一冊。道真公の西国暮しに、もうしばしお付き合いをいただきたい。
澤田瞳子
さわだ・とうこ●作家。
1977年京都府生まれ。2010年『孤鷹の天』で小説家デビュー、翌年同作品で第17回中山義秀文学賞を受賞。著書に『満つる月の如し 仏師・定朝』(新田次郎文学賞)『若冲』(親鸞賞)『星落ちて、なお』(直木賞)『泣くな道真 大宰府の詩』『腐れ梅』『恋ふらむ鳥は』等多数。