[本を読む]
「今日も強いこと言ってくれる感じ」に
惹かれる人たち
時事問題について、原稿を書いたり、ラジオで話したりしていると、「〇〇の点について、引き続き考えていきたい」と締めくくりたくなる。なぜって、引き続き考えなければいけない問題だから。でも、いつの頃からか、「引き続き考えていきたい」という表明が、「うわ、この人、結論出せないんだ」と受け止められるようになった。
「〇〇の理由は△△だ!!」と単純に言い切るコンテンツが溢れ、多くの人は、問題となっている「〇〇」より、その理由としてあげられている「△△」より、その人が「!!」というテンションで断言している状態に興奮している。教養とは「〇〇」と「△△」について反復しながら考える行為だと思っているが、「!!」の勢い、それを欲する観客の数によって、教養が計測されるようになってしまった。
私は頻繁にBOOK・OFFに行くのだが、店の性質上、数年前のベストセラーが並んでいる。本書で取り上げられている堀江貴文、ひろゆき、橋下徹らの書籍も数多く並んでいるが、内容的には古くても、テンションは変わらない。本書では、ひろゆきの著書『自分は自分、バカはバカ。』を取り上げ、「そのように『こちら側』と『向こう側』に線を引いて、『向こう側』に対する優越感をくすぐることに特化した態度が果たして『教養』なのだろうか」と書く。確かに、著者が問題視する「ファスト教養」の多くには、この「優越感をくすぐる」が内蔵されていて、自分のほうを向いてくれる人には「□□せよ!!」と熱い指示を出し、批判的に見てくる人には嘲笑を返す。
指示と嘲笑が繰り返されているうちに、その人が何を言っていたか、ではなく、その人が「今日も強いこと言ってくれる感じ」に惹かれていく。明らかに間違っていても放置される。たとえば、安倍晋三元首相が銃撃された数時間後、堀江貴文が「反省すべきはネット上に無数にいたアベカー達だよな。そいつらに犯人は洗脳されてたようなもんだ。」(原文ママ)とツイートしていた件など、支持する人たちはもう覚えちゃいないのだろう。私は覚えている。そういう断言がいかに乱暴か。なぜ、それでも受け入れられるのか、引き続き考えていきたい。
武田砂鉄
たけだ・さてつ●ライター