[本を読む]
パリへの想い、自由への情熱
保苅瑞穂さんは大学入学時、英文学を志していたという。情熱的な教授の授業に触れて「
文学の「汲み尽くせない清新な喜び」を教えてくれる外国文学者として、まっさきにぼくの頭に浮かぶのがほかならぬ保苅瑞穂さんなのである。プルーストを始めとして、モンテーニュ、さらにはヴォルテールと、フランス文学史上の巨人たちについて書かれたその著作の数々は、自分が“フランス文学に興味をもつ日本語読者”であることの幸福に浸らせてくれるものばかりだ。
本書で保苅さんは、二十世紀前半のフランスを代表する詩人・思想家ヴァレリーを取り上げ、反=戦争の人としての側面を描き出している。文明の危機に深く動揺しつつ、「どこまでも理性だけに従いましょう」と訴えたヴァレリーの「遺言」は今、まさにアクチュアルに響く。そのメッセージを鮮やかに聴き取り得たのは、保苅さんが現代世界に走る亀裂を鋭く察知していたからだ。「精神の自由に対する情熱」(ヴァレリー「ヴォルテール」)の尊さが、何とよく伝わってくることか。
本書刊行を待たずして、昨年、保苅さんは亡くなられた。だが遺作となったこの本でも、筆致は隅々まで明澄で、弾むようにみずみずしい。青春の一時期を過ごし、退職後ふたたび暮らす巡り合わせとなったパリの街と、そこに住む人たちに対する想いが全巻に脈打っている。とりわけ最終章に記された一老婦人との交流の回想には、フランス文化への限りない愛惜があふれ出すかのようで、繰り返し読んではそのたびごとに目頭が熱くなる。著者の白鳥の歌というほかはない。まさしくプルースト的な心のふるえに満ちたこの至上の一冊をとおして、保苅さんの精神はわれわれ読者に優しく、そして熱く語りかけ続けることだろう。
野崎 歓
のざき・かん● フランス文学者