[今月のエッセイ]
少年が荒野に降り立ったとき
十一月下旬の博多港には真冬を感じさせる冷たい風が吹いていた。
西日が差し込む埠頭では、カメラを持った人たちがゆるキャラの着ぐるみを囲んでいる。ベンチではコンサートを待つ少女たちがアイドルグッズを手に自撮りに夢中だ。逆光のタワーをきれいに貫くように、旅客機が福岡空港を目指して高度を落としていく。
錆びたビット(係留柱)に腰掛けて沖を見やると、はるか正面には「海の中道」という
埠頭の公園には分厚い鉄のまな板に赤いスクレイパーをぶっ挿したような巨大なモニュメントがそそり立つ。それは終戦直後、大陸から引揚げてきた人々を乗せた「引揚船」がモチーフであることを知る人は多分少ない。
『荒野は群青に染まりて』の最初のシーンはその引揚船の中だ。
私の担当氏のお父様が子供の頃に朝鮮半島から引揚げてきたと知り、お話を伺った。中でも印象強かったのが、引揚船で聞いた「どぼん」という音のことだ。船から身投げをした女性がいたのだ。心中だったようで甲板には抵抗する子供の泣き叫ぶ声がしていたと言い、そのときの「どぼん」という音が耳から離れないと仰っていた。別の港に着いた引揚者の体験談にも同様の話があった。痛ましい。
大陸を追われて船に乗り、まもなく祖国の地に迎え入れられるというときに、なぜ海に身投げをせねばならなかったのか。
その逸話は私の心を深く穿った。彼女らの胸中を思うことから執筆は始まった。
「もう安心だ、この船の上はもう日本だ」
引揚船で言い交わされた言葉だという。ようやく船に辿り着き、胸を撫で下ろした人々がいる一方で、内地には絶望しか待っていない人々もいたのだろう。外地で生きてきて生活の全てを失った人々にとって内地は必ずしも温かい母の
引揚船の上で「母の消失」にみまわれた主人公の
いまは大きなオフィスビルに囲まれて、洗練された都会の街並みだ。そこになぜか当時の
だが多分気づかなかった。一寸先が闇だった群青は重い荷を背負ってうつむいて地面ばかりを見ていたはずだからだ。
もし赤城がいなければ、母以外に身寄りのなかった群青はおそらく港で引揚孤児として扱われ、施設に連れていかれたはずだ。
博多には日本で初めて創建された禅寺という
かつてその敷地内には「聖福寮」と呼ばれる医療孤児施設があった。引揚援護の一環で体の弱った孤児を引き受けたという。博多には海の向こうから押し寄せる引揚者を受け容れる施設が足りなくて、学校や寺院がそのかわりになっていた。
聖福寺を参拝した。紅葉が美しく落ち葉焚きの煙で大きな瓦屋根が
平和外交を志す外交官でもあったその人は文官として唯一、A級戦犯となった。東京裁判では一言の弁明もしなかったという。
元首相と引揚孤児の記憶が晩秋の禅寺で交わる。開戦時渦中にあった人とその結果である孤児たちが思いがけず向き合っていた。黙して逝ったかの人は何を思っただろう。
博多の夜はクリスマスのイルミネーションで飾られていた。ショッピングモールでは浮かれたサンタのDJが派手な噴水ショーを繰り広げている。私は心を躍らせながら脳の片隅でぼんやりと思った。この国は本当にこれでいいのかなと。
――いいんじゃないかな。
いつのまにか私の隣には今時の若者めいた格好をした群青と赤城がいてクレープなどかじりながら噴水ショーを眺めているのだ。
「色々あるかもしれないけど、あの頃に比べれば、なんぼもマシになったよ」
君たちが言うなら、そうなのだろう。
その日本を造ったのも君たちなのだから。
桑原水菜
くわばら・みずな●作家。
千葉県出身。1989年下期コバルト読者大賞を受賞し、『炎の蜃気楼(ミラージュ)』でデビュー。代表作の『炎の蜃気楼』シリーズは70冊超、累計640万部の大ヒット作となる。ほかに「赤の神紋」シリーズ、「シュバルツ・ヘルツ」シリーズ、「遺跡発掘師は笑わない」シリーズ、『カサンドラ』等、著書多数。