[今月のエッセイ]
無線機が火花を発していたころ
日ごろスマホで手軽に無線の送受信をしていても、なぜ電波が飛ぶのか、どうやって電波を発生させるのかと問われると、答えられる人は少ないだろう。
もちろん私も知らなかった。高校の物理で習ったような気もするが、思い出そうとしても浮かんでくるのは「インピーダンス」とか「ローレンツ力」といった謎の言葉と、物理の先生の気弱そうな笑顔ばかりである。
実用的な無線機は、イタリアのマルコーニによって一八九五年ごろに発明された。日本史的には日清戦争のあたりとなる。
このときマルコーニは二十歳そこそこの若者で、博士号どころか大学さえ行っていなかった。それでも世界的な発明ができたのは、ヘルツやマックスウェルといった大学者の発見の上に、自分の工夫――おもにアンテナに関する発明――を重ねたからだろう。
画期的な発明である無線機も、しかし当初は何の役に立つのかわからず、イタリア国内ではまったく注目されなかった。だがイギリスに渡り、そこで特許を取得するとともに宣伝につとめると、やがて世界中に知られるようになる。
日本でも、電信をあつかっていた
海軍は、そのころ旗や灯火しか方法がなかった軍艦同士の通信に、無線を使おうと考えたのだ。日清戦争が終わり、三国干渉をへてつぎの敵国がロシアと目され、軍備充実がはかられはじめた時だったので、その波に乗って新兵器を開発したともいえる。
ここで
駿吉は、木村
駿吉は維新後に父摂津守が隠居して無職となったために苦労し、時には養子にやられたりしながらも、大学予備門をへて東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。そののち大学院を出てから米国留学を果たし、米国で博士号を得ている。
帰国して仙台の二高(現・東北大学)で物理学を教えていた時、海軍士官となっていた兄、
発明されたばかりの無線機は当初、通信距離の短さなどで実用性を疑われていたが、急速にその能力をあげてゆき、駿吉が開発に関わるころには、英仏間のドーバー海峡をまたぐ通信ができるほどになっていた。
駿吉は逓信省の技師の協力をえて、実用的な無線機の開発につとめる。博士号をとるほど理論には精通しており、また外国語の文献も自在に読みこなす力がある駿吉でも、これは困難な作業だった。最先端の技術ゆえにまだその原理が十分解明されていなかった上に、性能のよい部品も不足していたのだ。しかもロシアとの開戦が迫り、時間もない。
闇の中を手探りで進むような苦闘を重ねて、駿吉はなんとか実用に耐える三六式無線機を造りあげ、量産して軍艦に搭載していった。これが日本海海戦に際して「敵艦見ゆ」の一報を発し、日本海軍に勝利をもたらしたのである。
日露戦争後、駿吉は勝利の立役者のひとりとして表彰されるなど、栄光につつまれた。
しかしその後、駿吉は海軍で出世もしなければ、後世に残るような発明発見もしなかった。三六式無線機の後継機は開発したが、そのあとは海軍をやめて民間に転じている。
それでも幸福な家庭を維持し、無線や技術の仕事に関わりつつ、七十一歳の生涯を悠々とまっとうした。晩年に無線機開発の苦闘をふり返って、ユーモア混じりに述懐する本を残してもいる。
そういった職人気質で欲が少なく、
あ、ついでにいえば、本作を読めば無線の原理、すなわち電波とはどういうものか、どうやって電波を発生させるのか、どうやって受信するのかもわかるようになっております。発明当初の無線機はかなり原始的な機械だったので、構造はそれほど複雑でなく、その原理も理解しやすいと思われます。
歴史をめぐる感興と科学の知識と、ふたつながらに得られるお得な一冊。
ぜひ書店でお求めください。
岩井三四二
いわい・みよじ●作家。
1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」で第64回小説現代新人賞を受賞。著書に『月ノ浦惣庄公事置書』(松本清張賞)『清佑、ただいま在庄』(中山義秀文学賞)『異国合戦 蒙古襲来異聞』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『室町もののけ草紙』等多数。