[今月のエッセイ]
「知の庶民」による哲学
『哲学で抵抗する』という本を書きました。
主な読者として想定したのは、この雑誌のタイトルどおりに「読書」する「青春」のハイティーン、そして自分の心のなかにいるハイティーンを大事に養っている人です。
お察しのとおり、これは哲学の本です。哲学というと、知の貴族階級の手すさびというイメージもあるでしょう。狭義の哲学が素人の太刀打ちできるものではないというのも、残念ながらしばしば事実です。しかし、この本で伝えようと努めたのは、この印象とは正反対のことです。哲学は「知の庶民」にとって縁遠いものであるどころか、むしろ誰もがすでに手にしていておかしくないものだということです。
そもそも、かく言う私自身が、純然たる「知の庶民」です。なるほど、大学で現代思想やらフランス語やらを教えている教師がそのように自称することに鼻もちならないところはあるでしょう。しかし、事実そうなのだからしかたがない。大学教師たちは想像よりはるかに凡俗ですが、私はその凡人の群れの先頭を全速力で走っています。
もちろん、私も研究者のはしくれなので、研究室では難解な専門的文献の数々と格闘するのが日常ではあります。そうでないと言えば白々しい噓になる。しかし、ひとたび狭い研究の領野を離れて家に帰れば、だいたいにおいて定番の本を読み、定番の映画を観ています。
イタリアのネオレアリズモ映画を知ろうと思えば『自転車泥棒』や『ストロンボリ』に続けて『揺れる大地』を観る。往年のハリウッド史劇映画なら『ベン・ハー』や『十戒』とあわせて『スパルタカス』を観る。十八世紀のフランス文学に興味をもてば『マノン・レスコー』や『ソドム百二十日』に加えて『カンディード』も読む。アメリカのSF小説なら『鋼鉄都市』や『ヴァリス』はもちろん『スローターハウス5』も読む。意外性のない古典ばかりです。
あるいはまた、スープカレーと海鮮丼とソフトクリームに舌鼓を打つありきたりな北海道旅行の後に、なかなか音の出ないムックリを力まかせにはじきながら『アイヌ神謡集』と『アイヌの碑(いしぶみ)』をネット書店で注文する。散歩の途中に街道沿いの大手古本チェーン店にふらっと立ち寄り、「哲学」の棚に手違いで(あるいは悪ふざけで)突っこまれていたキング牧師の『黒人はなぜ待てないか』を暇つぶしに手に取り、なんとなくレジにもっていく。
あなたの(あるかなきかの)教養は何によって
さて、今回の『哲学で抵抗する』では、いま太字にした二本の映画と四冊の本を主要な読解対象として取りあげています。というよりも、今回の本は、私自身が「知の庶民」として出会ってきた六つの名作を味わっていただくための副読本に相当すると極言してみてもかまいません。
これら六つの本ないし映画には、現実におけると虚構におけるとを問わず(虚構のばあいも、明らかに同時代的現実や史実が参照されていますが)、ひどい目に遭って逆らう人、納得がいかずに楯突く人、つまりは抵抗者が出てきます。
抵抗の背景となっているものをおおむね時代順に並べれば、ローマ時代の苛酷な奴隷制、十八世紀にポルトガルを襲った大災害、先住民アイヌに対する近代日本の圧制、イタリアの辺境における日常的な漁民搾取、ドイツの都市に対する大規模空爆、アメリカにおける陰湿な黒人差別となる。これらはいまでは大半が有名であり、抵抗者たちの登場は後世の私たちからすると当然とも思われます。とはいえ、その抵抗者たちもまた、いかに偉大であろうとも「知の庶民」だったにちがいないというところが重要です。
人は抵抗する。こんなことはもう嫌だとなれば、突発的にであれ熟慮の末にであれ、場を乱す振る舞いが生まれる。動けと小突かれても止まり、止まれと命令されても動く。言えと
哲学特有のその抵抗が実際にどのようなものであるかは、ぜひ『哲学で抵抗する』の本文でご確認ください。
この本は、作者の考えるかぎりは正真正銘の「哲学書」ですが、狭い意味での哲学の話はほとんど出てきません。哲学アレルギー(たいていは西洋哲学史アレルギー)の自覚症状があるかたにも安心してお読みいただけると思います。
お待ちしています。
高桑和巳
たかくわ・かずみ●現代思想研究者。
1972年生まれ。慶應義塾大学理工学部教授。著書に『アガンベンの名を借りて』、編著書に『フーコーの後で』『デリダと死刑を考える』。最近の翻訳にアガンベン『私たちはどこにいるのか?』、同『散文のイデア』(近刊)など。