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伊東 潤 『真実の航跡』
次世代に伝えるべき物語を書く

[特集インタビュー]

伊東 潤 次世代に伝えるべき物語を書く

太平洋戦争末期、洋上の重巡洋艦で、イギリス人とインド人の捕虜が虐殺されるという事件が起きた。戦後、この事件の首謀者として、二人の将校が香港の戦犯法廷で裁かれることになった。日本からやってきた若き弁護士、鮫島(さめじま)と河合(かわい)はそれぞれの被告の弁護を割り当てられる。戦勝国が主導する裁判で、はたして真実は明らかになるのか?
『巨鯨の海』では紀伊半島の漁村を舞台に鯨捕りを、『峠越え』では本能寺の変の直後に四面楚歌の中、帰郷しようとする家康の苦悩を、臨場感たっぷりに描いた伊東さんが、今回挑んだのは戦争犯罪をめぐる法廷闘争。実際にあった事件をモデルに、後世に残すべき「不都合な真実」を真っ正面から描いた熱い作品です。伊東さんに、この小説を書いた理由、いま作家として読者に伝えたいことをお聞きしました。

聞き手・構成=タカザワケンジ/撮影=chihiro.

法律だけを武器に戦った男たち

──『真実の航跡』は、太平洋戦争末期に起きた捕虜虐殺事件とその裁判をモデルにされているそうですね。執筆のきっかけから教えてください。

 集英社さんからお声がけいただき、何か新しい題材でいこうとなりました。それで日本人にとって大きな転機となった戦争について書きたいと思い、史実を調べていくうちにビハール号事件に突き当たりました。そこで、この事件を小説という形式で伝えていけないかと考えたわけです。

──『真実の航跡』では「ダートマス・ケース」とされていますが、日本の海軍による捕虜の虐殺事件ですね。その責任者として、戦隊の司令官・五十嵐(いがらし)と、虐殺の舞台になった重巡洋艦の艦長・乾(いぬい)が告発され、香港で戦犯裁判にかけられます。いわゆるBC級戦犯裁判ですね。

 そうです。歴史の闇の中に消えかかっているBC級戦犯裁判を、いかにしたら小説として世に問えるかという点で苦労しました。まず、これまでに書いたことのない時代の話の上、裁判のルールや推移を史実に沿って書かなければならないですから。そのために資料を集めて読むのに時間をかけました。小説二冊分を書くくらいの手間でした。とくに、イギリス主宰の軍事法廷がどのような手順で行われ、どのようなものだったのかがわからない。どうしようかと思っていたら最適な本があったんです。『裁かれた戦争犯罪──イギリスの対日戦犯裁判』(林博史著、岩波人文書セレクション)という研究書です。今回は小説家になって初めて英語の資料も読みましたが、日本語の専門書があったので大いに助かりました。

──『真実の航跡』の主人公は鮫島正二郎(しようじろう)という二十七歳の若手弁護士ですね。戦勝国が、敗戦国が起こした戦争犯罪を裁くという逆境の中で、誠実に裁判に向き合おうとします。鮫島を主人公にされたのはなぜでしょうか。

 この小説のモデルとなったビハール号事件を弁護した方が、私家版の手記を発表されているんです。これが大変参考になりました。やはり若い弁護士の方で、戦後まもなくあったこの裁判で、法律だけを頼りに圧倒的に不利な戦いに挑んでいかれた。僕が描きたかったのは、法律を駆使すれば、相手が戦勝国だろうと戦い抜くことができるということです。どんな状況だろうと、法の正義を信じればブレークスルーできる。それゆえ正義感溢れる若い弁護士の視点で描いたんです。
 執筆の間に、『返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す』という井浦新さん主演の映画を見たんですが、外務省の役人が、「理想を追求せずして何のための外交か」と言いながら、米国に対して沖縄の返還を粘り強く交渉していく映画です。一人の人間の無謀とも思える努力の積み重ねによって一九七二年の沖縄返還が成ったと知り、いたく感動しました。鮫島の場合も、外国で、戦勝国が裁く法廷で、被告人は死刑を覚悟している、という絶望的な状況にありながら、決して諦めない。できる手を的確に打っていく。そうした姿勢こそ、締めの早い現代社会に必要なのではないかと思いました。

── 裁判の被告は二人。戦隊全体の責任者である司令官の五十嵐と、現場で指揮を執っていた艦長の乾です。鮫島は五十嵐の弁護を担当することになるのですが、最初に弁護方針をめぐって被告と対立します。五十嵐は死刑を覚悟していますが、鮫島はなんとかそれを回避しようとします。

 当時の軍人のメンタリティとしては当然です。五十嵐は作戦を指揮する司令官であり、すべての責任を負う立場です。しかし五十嵐個人には何の落ち度もありません。そのため鮫島は五十嵐に共に裁判を戦うことを説きます。その熱意にほだされた五十嵐も真実の航跡をたどることに同意します。しかし五十嵐を救おうとすればするだけ、乾を死刑台に近づけてしまうことになるのです。というのも英国は見せしめのため、最低でも一人を死刑にしたいからです。このジレンマをいかに克服するか、それが戦犯裁判の難しいところです。

日本人が加害者になった事件は伝わりづらい

── 五十嵐と鮫島の対話からは「日本人とは何か」という問いが浮かび上がってきます。五十嵐は帝国軍人としての美学に殉じようとする。鮫島は戦後の日本のために真実を明らかにし、生き延びてほしいと考える。価値観のぶつかり合いがスリリングです。

 五十嵐は戦前の立派な父親を象徴するような人物です。一方、鮫島の亡父は戦前の父親の悪い部分を凝縮したような存在でした。鮫島は父を軽蔑し、父が重い病にかかっていることを知りながら治療を勧めなかったことで、後ろめたさを抱いています。それゆえ鮫島に、五十嵐を救うことで亡き父への贖罪(しよくざい)にしたいという気持ちが芽生えます。裁判を通して、鮫島はいいものも悪いものも日本人の特性だと気づき、五十嵐を生かすことで、それを伝えていきたいと思うようになるのです。戦争に負けたからといって、欧米の価値観に迎合する必要はない。ありのままの日本人の姿を残していくということに、鮫島は五十嵐を弁護しながら気づいていくわけです。

──『真実の航跡』というタイトルに示されているように「真実」はこの作品のキーワードですね。

 真実という言葉は、気軽に使えるようなものではありません。それゆえ当初、タイトルに使うことに躊躇しました。それでも、あえて使うことにしました。というのも、法の正義だけが、真実を照らし出すことができるからです。

── 戦後の日本がどのような価値観の下に出発したのか。鮫島はその象徴的存在にも思えました。

 今年で戦争が終わって七十四年ですか。戦後昭和でさえ「歴史」になりつつある今、われわれは国際感覚を身に付けられたでしょうか。外資系企業に二十二年間もいた私からすると、全く身に付けられていないと思います。とくに組織の中に身を置いてしまうと、日本人というのは駄目になると思います。悪いことでも告発できない隠蔽体質はもちろん、自らリスクを取らず責任も取らない。だけど出世はしたいから忖度だけはする、こういった国際社会で通用しない価値観だけが連綿と伝わってきているのが、今日の日本です。

── 近年の傾向として、日本礼賛の本やテレビ番組が増えています。自分の国に誇りを持つのはいいことですが、嫌なことを見ないで、都合のいいことばかりを見ようとしているような傾向も感じます。

 仰せの通りです。情報が溢れている現代社会では、それぞれが耳に心地よい情報だけを聞いているような気がします。だから世界的に政治的分断が広がっていくのです。若い人にしても、好きなものにはとても詳しいけれど、昨今のバイトの不適切動画問題でわかるように、一般常識的なことが抜け落ちてしまっている人が多いように感じます。情報のバランスがものすごく悪い気がするんです。日本という国家に誇りを持つのはいいことですが、悪い面を黙殺して礼賛ばかりするような風潮は、何も生み出しません。悪いことも日本人の歴史なんです。そうしたことを受け入れる度量が必要です。

── 日本が被害者になった出来事は伝わりやすいですが、加害者になった事件は伝わりづらい。

 日本人としては耳の痛い話ですからね。情報の海の中に埋もれやすい。だからこそ小説としてわかりやすく、面白く伝えていきたいと思うんです。小説という形で世に問うことで、できるだけ間口を広げ、さらに興味があれば、参考文献や専門書を読んでいただく。そういう流れがつくれればいいと思っています。これだけ情報が溢れている時代だからこそ、次世代に伝えるべき情報はしっかりと残していく。そこに自分の作家としての存在意義があると思っています。

結論から言っても届かない

──『真実の航跡』は重い事件を扱っていますが、おっしゃる通り「わかりやすく、面白く」書かれています。プロローグでは事件のまさに直前、苦悩する乾艦長が描かれますが、何に苦悩しているかは明かされません。そして第一章に入り、戦後の香港へと向かう弁護士の鮫島が描かれる。読者の好奇心をそそる導入部です。

 物語を書く技術として、最初にアクションシーンを入れることもあれば、苦悩する人物を描き、「何に苦しんでいるのだろう」と思ってもらう書き方をすることもあります。歴史小説全般に言えることですが、情報量が多いので物語に入りにくい一面がある。前半はとくにそうです。そうした意味で本作では、導入部で興味を持ってもらうように工夫しました。

── 太平洋戦争という題材についてはどうでしょう。戦争を題材にした小説、ノンフィクションが多数書かれていますが、伊東さんにとっては初めての挑戦です。

 戦争経験者が少なくなり、若者たちに戦争をどう伝えるかが難しくなっていますよね。実際のところ、戦争はいけないというメッセージが若者に伝わっているかと言えば、怪しいと思うんです。戦争はダメだという結論にすぐに行ってしまうからです。ダメだ、やっちゃいけない、と結論から言っても若い人には届かない。人は自分で考えてたどり着いた結論でなければ心に残らないものです。僕は『真実の航跡』で反戦を声高には叫びません。本作を読んだ若者には、まず「戦争とは何だったのか」を出発点としてもらいたいからです。

── 考えるという点で言えば、被告の二人の立場の違いが興味深いですね。五十嵐は黙って死刑を受け入れようとするのに対して、乾は命令されたことだと抗弁します。鮫島は五十嵐の弁護を担当していますが、一緒に日本から弁護にやってきた同僚の河合が乾を担当し、対立することになってしまう。

 史実でもそうなんですが、この裁判には五十嵐を死刑から遠ざけようとすると、乾が死刑台に近づいてしまうという皮肉な構造があります。二人を同時に救うことが非常に難しい。それでも法の正義を貫き、正しい裁判を行わせ、真実を暴き出さねばならない。そこに登場人物たちの苦悩や葛藤が生まれます。読者には登場人物個々の立場になり、「自分だったらどうする」という観点からも読んでほしいですね。

── 自分が五十嵐だったら、鮫島だったら。あるいは乾だったら。そう思えることが小説の面白さであり、人間の想像力のすばらしさですね。

 そうなんです。人間の個性は多様であり、完全無欠の人間などいません。だからぼくの小説では、単純な善人や悪人というのを容易には出しません。本作の場合、乾という人物の個性を際立たせましたが、乾は組織への適合がうまくできない人間なんです。平時であれば、そうした微妙な違いも何とかなるのですが、決断すべきことが次々と現れてくる戦時では、大きな決断ミスも起こる。それによって取り返しのつかないことになってしまうのです。その意味で本作は、組織の問題にも深く切り込んでいます。

読者をその場に連れていく小説を

── 戦後すぐの時代を描いた小説やドラマ、映画では日本人が苦労したという話が多いですよね。『真実の航跡』のように戦後すぐの香港や、戦犯法廷がどんな雰囲気だったかということを描いた作品はあまり思い浮かびません。

 そうなんです。先行作がないだけ自由に描けたという一面はありますが、あまりに近い時代を描くので、小説として成り立つかどうか疑問でした。しかし戦後の昭和さえ歴史の世界になりつつある今日、小説という形で世に問うべきだと思いました。もちろん実際にあった事件をベースにしていますが、そこからは逸脱し、今日残されている様々な戦犯裁判のエピソードなども加え、架空の物語として描くことにしました。小説の存在意義は、事実を正確に伝えることよりも、そのエッセンスを凝縮し、物語として提示することで、読者にテーマの本質を理解いただくことにあると思うからです。

── 歴史に位置づけられることで客観的な目で物語の舞台にできるということでしょうか。たしかに『真実の航跡』を読むと、作家の手で再構築された戦争直後に放り込まれたような感覚を覚えます。

 僕は小説を書く際、読者をその場に連れていくことを、常に念頭に置いています。今、バーチャルリアリティ(VR)が隆盛です。ユニバーサル・スタジオでもディズニーランドでも、VRを使ったものが人気のアトラクションになっています。でも一回目は驚きがあるけれど、二回、三回となると飽きてくる。しかし文字は違います。文字によって広がるイメージは無限です。同じ本を読んでも、その時の人生経験や知識によって印象が違ってくる。それが文字で書かれた小説の力です。本作では読者の皆さんを香港に連れていき、戦犯裁判に立ち会わせたいという一心で書きました。

── 小説の力を生かしたいということですね。

 そうです。とくに本作は、小説の力が随所に溢れています。ただし一人でも多くの方に読んでほしいというより、この小説を必要とする読者に届けば、それでよいと思っています。

2019年4月号「青春と読書」掲載
単行本『真実の航跡』刊行時のインタビュー

伊東潤

いとう・じゅん●作家。
1960年神奈川県生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。2011年『黒南風の海―加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回「本屋が選ぶ時代小説大賞」、13年『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞、『義烈千秋天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞作品賞、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。14年『巨鯨の海』で第1回高校生直木賞、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を受賞。著書多数。

『真実の航跡』

伊東潤 著

12月17日発売・集英社文庫

定価 880円(税込)

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