[今月のエッセイ]
生活の哲学を集めて
普通の人が何気なく
そういう一言は、アンケート調査では表れてこない。もちろん調査票を配って、あらかじめこちらが設定した質問に答えてもらうというやり方が有効な調査・研究はたくさんあるだろう。だが人類学者が知りたいのは、60%の人がこう答えました、というような科学的で客観的な(ように見える)データではなく、人々が自らの人生を生きる中で、少しずつ形成される生活の哲学のようなものだ。その哲学は意識して出てくるものではなく、何気ないおしゃべりの中にふっと顔を出す。その瞬間を根気強く待ち、そして
だがダラダラと現地の人々とおしゃべりしているだけの時間の余裕が私たちに常にあるわけでもないし、現地の人々も仕事や生活があるので、そうそう外国からきた人類学者などと付き合う暇はない。だから限られた時間の中で、どうにかして相手にリラックスしてもらい、あの一言、私たちの偏見を打ち砕いてくれるような、あの普通でいて
私たちが切望しているのは本音ともちょっと違う。本音は「いや実は本当のところはね」などと
インドで普通の人々と普通の会話ができるようになるには確かに時間がかかる。現地語の習得に何年も
人類学では「参与観察」と呼ばれる方法論がある。それは現地の人々と同じようにお祭りや農作業など様々な活動に参加して、それらをいわば内側から観察しましょう、というやり方だ。これはちょっとスパイが行う潜伏調査に近いかもしれない。仲間になったフリをして行動してみる。だから、優秀なスパイのように仲間であることを疑われないくらいのフリができた方がいいのかもしれない。現地の人のような風貌で、現地の人のように言葉を操ることができれば、もしかしたら、本当の「参与観察」が可能なのかもしれない。
でも、と私は思う。正体がバレてしまったらスパイはおそらく袋叩きにあうだろうから必死かもしれないけれど、人類学者がそこまで頑張る必要はないだろう。いや、頑張らない方がいい。言葉もたどたどしく、子供でも知っているようなことすら知らない外国人でいいではないか。そうすれば、よしコイツに色々教えてやろうと思ってもらえるかもしれない。とにかく私はそれでなんとかやってきた。弱くてダメなことも戦術としては有効だ。馬鹿にされたり笑われたりすることを恐れるなど、もってのほかである。
さて、そんな風にダメさを武器にして集めてきた言葉たちをどう現代の日本社会に住む人たちに伝えるか。インドの
その本、『インド残酷物語 世界一たくましい民』で綴ったのは、あくまで個別的でパーソナルな物語である。だからこそ、その社会で生きることの手触りを伝えられるのではないか。逆に言えば、パーソナルなレベルにまで降りていくことによってはじめて、彼らと私たちの間にあるように見える「文化の壁」なる虚構を乗り越えることができるのではないか。そしてその地平にたってはじめて、その場所の意味を理解できるのではないだろうか。いくつかのパーソナルな物語がその手助けとなることを望みながら。
池亀 彩
いけがめ・あや●京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授。
1969年東京都生まれ。専門は社会人類学、南アジア研究。南インド・カルナータカ州を主なフィールドにし、文化・社会人類学的研究を行ってきた。