[巻頭エッセイ]
僕たちはどう生きるか
老いること、病むこと、死ぬこと。そのすべてには、それぞれの働きがある。死は、生物界の多様性を増大させながら、生命を次世代へと継承していく方法である。細胞の老化には、たとえばがん化のリスクを抑える働きがある(小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』)。病いにもまた、病いの働きがある。人は、自然は、病むことで何をしているのか。地球生命圏そのものが、深刻な病いの徴候を示しているいま、僕はこのことを考え続けている。
近年の地球システムの「病い」の徴候は、急激な「発熱」として表面化し始めた。大気中の二酸化炭素は、少なくとも過去八〇万年で最も高い濃度に達し、地球の平均気温は不気味な速度で上昇している。八月九日に発表されたIPCCの第六次評価報告書によれば、二〇四〇年までに地球の平均気温が、産業革命前に比べて一・五度以上上昇することは避けられそうにない。地球は、これまで人類が慣れ親しんできた「平熱」から、危険なペースで逸脱しているのだ。
温暖化だけではない。一三〇国以上が参加する「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学–政策プラットフォーム(IPBES)」が二〇一九年に発表した報告書によれば、いま地球上にいる動植物のうち、少なくとも一〇〇万種が、数十年以内に絶滅する可能性があるという。多様な生物が織りなす生態系の一員として、生物の多様性の恩恵を受け続けてきた私たちにとって、急激な生物多様性の喪失が何を意味するかは、まだわからないことばかりだ。
大小様々なスケールで表面化している地球生命圏の病いの症状は、いくらでも列挙することができる。だが問題は、こうした症状が何を表現しようとしているかだ。
「地球が人間の行為に応答し始めた」と、フランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールは語る。地球システムの全体が、人間活動の急激な増大に反応するように、あらゆるスケールで繊細に応答し始めているのだ。
「地球生命圏」とは、地上と地下、合わせてたった数キロしかない、地球表層の皮膜だ。地球上のあらゆる生き物が、この膜のなかにいる。人間もまた、この薄膜を分かち合う生命圏の一員である。
地球生命圏の異変はこのため、人間の身体にもそのまま侵入してくる。難民化したウイルスが、新たな宿主を求めて、ヒト細胞へ到達するのも、こうした異変の一つだ。
人類学者の松嶋
病いに蓋をするのではなく、症状を叩くだけでなく、病いが何を語ろうとしているかに耳を傾けていくこと。病いとともに生きていくことで初めて、開ける道があるはずだ。
あらゆる場所で生命圏の深刻な病状が表面化し始めているいま、症状をもたらしている根本的な状況にアプローチすることなく、短期的に目前の症状をつぶす対症療法だけでは、もはや病いの進行に追いつかないだろう。病いの声を聞こうとしない対症療法は、短期的に問題を先延ばしすることはできても、問題の全体にアプローチしない限り、身体は静かに蝕まれていく。どこかで立ち止まり、目を開き、病いが語ろうとしている声に耳を傾け始めなければならない。
根本的な対策――それは、僕たちが、僕たち自身の生き方を編み直していくことである。病いに蓋をせず、堂々と向き合いながら、「僕たちはどう生きるか」を、問い直していくことである。
病いは立ち止まることを教えてくれる。これまでの世界の順調な作動が、順調さを規定するいかなる尺度に縛られていたのかに、あらためて気づかせてくれる。
気候が変動し、疫病が蔓延し、当たり前にいたはずの生き物たちが次々と滅びていく世界で、心を壊さず、しかも感じることをやめないで生きていくためには、小手先で症状に応じるだけでは間に合わないはずだ。
病むこと、死ぬこと、老いること――未来が来ることに目を背けずに、目を開いて生きていくこと。対症療法ではなく根本治療へと向かっていくこと。『僕たちはどう生きるか』は、このために、二〇二〇年の春から試行錯誤を始めた、僕自身の混沌と生まれ変わりの記録だ。
僕たちはどう生きるか。僕たちはどう生きていたのか。いまよりも地球が温暖化し、海面が上昇し、自然災害が激甚化している未来において、それでも潑剌と生きる子たちの姿を思い描こうとしながら、この本を書いた。
森田真生
もりた・まさお
1985年生まれ。独立研究者。2020年、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵」を拠点に、「エコロジカルな転回」以後の言葉と生命の可能性を追究している。著書に『数学する身体』(2016年に小林秀雄賞を受賞)、『計算する生命』、絵本『アリになった数学者』、随筆集『数学の贈り物』、編著に岡潔著『数学する人生』がある。