[今月のエッセイ]
小説は無力じゃない
『青少年のための小説入門』は、気弱でまじめな少年と、ディスレクシア(識字障害)で読み書きが自由にできない不良青年がタッグを組んで作家になり、理想の小説を生み出そうと格闘する物語だ。書き始めたのが二〇一五年。前作『ハロワ!』の刊行から、四年かかった。
『ハロワ!』は『小説すばる』に連載した作品で、最終回の締め切りが東日本大震災の四日後だった。最終回の執筆には手こずった。過酷な現実を目のあたりにして、小説は無力なんじゃないか、という思いにとらわれたのだ。なんとか書き終えたものの、その疑問はそれからも消えず、意識の中に居座ってしまった。自分が次になにを書きたいのか、そもそも小説を書きたいかどうかさえわからない。そんなことは作家になって初めてだった。 それでも毎日、机にかじりついて、アイデアを絞り出そうとした。ものになりそうなアイデアをつかんで書き始めても、一〇〇枚をすぎたあたりで、とたんにつまらなく思えてくる。やむなく
なんとかそこから脱しようと、発想法に関する本を何冊も読み、書いてあることを忠実になぞったりもした。ノートの左端に思いつく単語を上から下まで羅列し、それぞれについて連想する単語を、右端まで書き連ねる、とか。いくらやっても成果が出ない。ひどく無意味なことをしている気がして、しんどかった。
しかし、そういう作業が、知らず知らずのうちにリハビリになっていたのかもしれない。核になるアイデアをつかんだきっかけは、ある日、ひさしぶりに『ニュー・シネマ・パラダイス』を見なおしたことだ。映画をめぐる映画っていいな、といつもながらの感想を抱いてふと、それを小説でやれないか、と思いついた。そこから以前読んだベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を思い出すまでは速かった。朗読シーンをバンバン盛りこめば、メタフィクションとはひと味違う、小説をめぐる小説になるはずだ。いける、という手ごたえがあった。
ただ、朗読シーンをバンバン盛りこむには、それに必然性を持たせる設定がいる。粘り強く考えるうちに、まじめな少年と読み書きできない不良青年をコンビにして、作家を目指す青年のために、少年が古今東西の名作を朗読する、というアイデアが浮かんできた。それで弾みがついて、作品のキーコンセプトも決まった。小説を多彩で、多様な曲のように使う。頭にあったのは、音楽におけるサンプリングだ。
沖野修也の『DJ選曲術』によると、DJはプレイごとに何十枚もの音源を用意し、ここはこれ、とあらかじめ決めてかける曲以外は、フロアの盛りあがりにあわせて選曲していくという。
ぼくもそれに
その準備として、セットリストに並べた作品の多くを読み返した。執筆と同時進行で、必要に迫られての読書だったけれど、楽しかった。夢中になってそれらを読んでいたころの記憶が、まざまざとよみがえってきた。
子どもむけの日本文学全集を小学生で読破し、当時からすでに作家志望だった。読むのが好きだから、いつか書く側に回りたいという単純な理由で、初めてノートに小説らしきものを書いたのは、五年生のとき。『雑草』というタイトルで、挿絵まで描いた。堂々たる長編になる予定が尻すぼみに終わり、それでも
何度も書きなおしを重ね、ようやく作品を完成させたのが二〇一八年。書けなくなってから、七年経っていた。それが、小説は無力なんじゃないか、という問いに、自分なりの答えを出すのに要した時間だ。長いトンネルだったけれど、そこをくぐり抜けなければ、おそらく、二度と書けなかった。作中のコンビとともに小説と格闘し、作家として再びスタートラインに立てた。そう思っている。
いま、あらためて感じるのは、自分がいかに小説を愛しているかということ。そしてもちろん、小説は無力じゃないということ。今回の文庫化によって、一人でも多くの読者が同じように感じてくださったら、これにまさる喜びはない。
久保寺健彦
くぼでら・たけひこ●作家。
1969年東京都生まれ。2007年『すべての若き野郎ども』で第1回ドラマ原作大賞選考委員特別賞、『みなさん、さようなら』で第1回パピルス新人賞、『ブラック・ジャック・キッド』で第19回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。著書に『ハロワ!』『GF ガールズファイト』等。