[本を読む]
名君か、暗君か。
慶喜の実像に迫る歴史小説
徳川慶喜は、名君か、暗君かで評価が分かれている。その原因の一つは、鳥羽・伏見の戦いでの敵前逃亡だろう。朝廷から徳川征討の
そのため慶喜の実像と逃亡の理由は、山岡荘八『徳川慶喜』、司馬遼太郎『最後の将軍』、林真理子『正妻』などが題材にしており歴史小説の激戦区といえる。『会津の義』など幕末ものに傑作が多い植松三十里の新作も、最新の研究と独自の解釈で慶喜の真意に迫っている。
名門の水戸徳川家に生まれ、美男子で文武に秀で、体も丈夫な慶喜は、名君の資質を備え早くから次期将軍に推されていた。だが謙虚で上昇志向がない慶喜は、黒船来航から始まる国難に対処して欲しいという声を拒否し続ける。慶喜が大き過ぎる周囲の期待と自己分析のズレに悩みながら、進むべき道を模索する前半は、青春小説としても秀逸である。
やがて政争に巻き込まれ謹慎した慶喜は思索を深め、真の恐怖は外国の侵略ではなく国を二分する内乱であると確信。日本の軍事力をまとめ外国の侵略を防ぐことが本来の攘夷であり、そのためには各国と外交関係を維持し最新の武器を輸入する必要もあるという結論に至る。
本書は、慶喜が主戦論を退けたのは、幕府がなくなっても日本を守って欲しいという父の遺志を受け継ぎ、ロジカルな思考で現実的な政策を採った結果としており、この解釈には説得力がある。
攘夷派と開国派が抗争を繰り広げた幕末と同じく、現代も、経済振興策、マイノリティの権利、外国人労働者の受け入れ、コロナ対策まで国論が二分し、自分と異なる意見を感情的に非難する状況が続いている。こうした時代だからこそ、社会の分断を防ぐために手を尽くした慶喜から学ぶことは少なくないのである。
末國善己
すえくに・よしみ●文芸評論家