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この物語は人間の本質を映し出す鏡だ
五十歳の誕生日を迎える父・キムを驚かせようと、次男のヨナスは秘密の贈り物を準備した。キムと母・イネスの幼馴染である女性、テヴィを祝いの場に招待したのだ。だがそれは、キムにとっては忘れてしまいたい過去を呼び戻す、忌まわしい行為であった。
『誕生日パーティー』は、オーストリア人作家ユーディト・W・タシュラーが二〇一九年に発表した長篇である。初めて邦訳されたタシュラー作品は、現在と過去の出来事を往復することで意外な真相が浮き彫りになっていく仕掛けが秀逸な書簡体小説の形式を取り入れたミステリー『国語教師』だった。本書も誕生日の祝いが行われている二〇一六年の現在から始まり、すぐに過去の叙述が並行するようになる。キムとテヴィにはカンボジア難民としてオーストリアにやってきたという経緯があった。さらに第三の語りが交じる。「カンボジア 七〇年代 メイ家」と題された章で、語り手の〈ぼく〉はクメール・ルージュの少年兵だ。彼が「自ら望んで殺した最初の、そしてただひとりの人間」を手に掛ける場面がまず描かれる。
クメール・ルージュは一九七〇年代にカンボジアを支配した勢力で、恐怖政治によって共産主義化を推進したが、結果として国民の四分の一が命を奪われた。人命は軽く、個人の尊厳は無に等しかった。〈ぼく〉が名無しなのは、人間がモノとして消費される世界だからでもある。
加害者と被害者、過去に価値を見出す者と悪夢だとしか感じられない者というように、人間関係が対で描かれる点に本書の特徴がある。それらはいつでも入れ替わり可能なのだ。作者の祖国オーストリアにはナチス政権の時代が存在する。クメール・ルージュの向こうに、タシュラーは自国の暗い歴史を見ているはずだ。「彼ら」は「自分たち」なのだ、という呟きが聞こえる気がする。ミステリーの構造を用いてタシュラーは鏡像の物語を書いたのだ。
謎は解ける。だが、人間が時に示す残忍さへのやりきれない思いはいつまでも残る。
杉江松恋
すぎえ・まつこい●書評家、ライター