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目まぐるしく反転する虚像と実像
篠田節子の第五十三回吉川英治文学賞受賞作『鏡の背面』が、このたび文庫化されることになった。私は単行本刊行時にこの小説の書評を執筆したことがあるけれども、三年ぶりに再読して、人間存在の本質に迫る洞察のただならぬ凄みに改めて感嘆した。
薬物依存症患者やDV被害者などの不幸な女性たちが身を寄せているシェルター「新アグネス寮」の火災で、「先生」と呼ばれていた小野尚子が死亡した。資産家の令嬢に生まれながら私財を投じてシェルターを作り、多くの女性を救った尚子。ところが、焼死体は本人のものではなく、半田明美なる女が小野尚子に長年なりすましていたと判明する。一九八○年代、明美の周囲では幾人もの人間が不審死を遂げていた……。
弱者救済のために献身の生涯を送った小野尚子。連続殺人犯だった可能性が高い半田明美。後者のような「毒婦」が前者のような「聖女」として、死ぬまで二十数年も化けの皮を被り続けていられるものだろうか。「新アグネス寮」代表の中富優紀とライターの山崎知佳は、元記者の長島剛の助けを借りて真実に迫ってゆくが、小野尚子/半田明美の虚像と実像は目まぐるしく反転して彼らを惑わす。
本書において、追究されるのは人間のアイデンティティの不確かさである。それは、謎を追う側である優紀や知佳にも言えることだ。中でも、明美を悪女と決めつける長島が、紋切り型の嫌味な人物というだけではない点が秀逸である。人間誰しも、表側に見えている部分がその本質とは限らないのだ。
最後に明かされる真実は、人間存在の不可思議さを読者に深く刻み込むだろう。「悪に強きは善にも強し」という
千街晶之
せんがい・あきゆき●ミステリ評論家