[巻頭インタビュー]
クローズアップで捉えた
十年間のドキュメンタリー
四方田犬彦さんの新刊『世界の凋落を見つめて クロニクル2011-2020』(集英社新書)は、二〇一一年から二〇二〇年までに書かれたコラム九十九本が収められている。このコラムが書かれた時期は、奇しくも「大震災と原発事故に始まり、コロナウイルスで幕を閉じる〈呪われた10年〉」であった。
その間、四方田さんは、台北、ニューヨーク、ソウル、イスタンブール、ワガドゥグー(ブルキナファソ)、アンタナナリヴォ(マダガスカル)、パリなど世界各地を訪れていて、〈他者〉の眼差しからとらえた日本の姿も活写されている。
先行きの見えない新型コロナウイルスの蔓延で、「世界はまさに凋落のさなかにある」と揚言する四方田さん。インタビューが始まると同時に語り始めたのは、タイトルにも冠されている〈凋落〉という言葉に込めた思いだった。
聞き手・構成=増子信一/撮影=神ノ川智早
いま、世界は秋のさなかにある
最初にいっておきたいのは、凋落というのは終末ではない、ということです。
大学で宗教学を勉強したからかもしれませんが、わたしはキリスト教とマルクス主義というのをいつも対立ではなく、同列に見ているんです。キリスト教においては、歴史は終末に向かって直線的に進み、最後にはイエス・キリストが再臨してユートピア的な世界が訪れるという考え方をする。
マルクス主義もまた、原始共産制から始まって、奴隷制、封建制、資本主義という段階を経て、最後には共産主義に至って理想的な社会が訪れるという考えです。つまり、どちらも時間は過去から未来へと一直線に進んでいって、最後はハッピーエンドになる。こうした西洋的な時間概念を、われわれ日本人も子どもの頃から無意識のうちに植え付けられているわけですね。
しかしもう一方に、東洋的な循環する時間という考え方がある。たとえば仏教には「
要するに、世界・宇宙というのは、無の状態から徐々に栄えて、その後どんどん凋落していき、一度ゼロすれすれにまで戻るけれどもまた復活する。こうした循環するという考え方のほうが、一回限りのハッピーエンドとして終末を迎えるというのよりも希望をもてますよね。だから凋落という言葉には、そこですべてが終わるということではなく、復活・再生への契機が孕まれているわけです。
ちょっと詩的ないい方をすれば、春夏秋冬の秋ですね。『中世の秋』というホイジンガの名著がありますが、秋は冬を間近にした凋落の時期ではあるけれど、冬を越えればルネサンスという華やかな春が待ち受けている。「いま、世界は秋のさなかにある」なんていうと、いささか綺麗すぎますけれど、凋落というのはそのぐらいの意味で使いたいと思っています。
─ 時間を経れば良い方向に進化するというのではなく、良いことも悪いこともくり返されるのだ、という東洋的な思考を土台にした言葉なのですね。
そうした思考への契機には、親鸞があります。二〇一八年に『親鸞への接近』という本を出したのですが、完成するのに十年間ぐらいかかりました。親鸞という人についてはずっと気にかかっていて、大学のときに親鸞を扱っている脇本
それが二〇〇四年の三月から六月にかけてイスラエルのテルアヴィヴ大学の客員教授として滞在し、同じ年の十月から十二月にかけて、今度はセルビア、コソヴォへ行く機会がありました。コソヴォでは難民キャンプの仮設大学で講義をしたのですが、そのときに、現地の人たちに親鸞の話をしようと思って話してみた。ところが、うまく説明できない。たとえば、悪い人間ほどピュア・ランド(浄土)に行けるのだといっても、みなきょとんとしている。自分でもよく理解していなかったから、当然相手にも分かってもらえなかったわけですね。
帰国後、イスラエルや旧ユーゴスラヴィアにおける歴史の悲惨を目の当たりにした体験がじわじわと効いてきて、自分の勉強の方向を変えなくてはいけないというさまざまな思いが湧き、そのひとつが親鸞と向き合うことでした。そういうわけで、怖がっていた親鸞の封印を解いたのです。
先の本にも書きましたが、自分に大きな影響を与えた、三木清、三國連太郎、吉本隆明の三人がいずれもが親鸞について書いている。しかも、敗戦直後に獄死した三木清は別として、三國さんも吉本さんも、九十歳まで生きた親鸞と同じくらい長生きした。つまり、お二人は親鸞を研究すると長生きができるという教訓を与えてくれたわけです(笑)。
今度の本の中にも書きましたが、親鸞の本を書くときに、山折哲雄さんから親鸞を読むなら、『歎異抄』ではなく『教行信証』を読まなくてはダメだといわれました。『歎異抄』は弟子が書いたもので、親鸞の本当の言葉かどうか分からない。親鸞が手ずから書いた『教行信証』を読みなさい、と。それから十年して、出来上がった本を山折さんにお届けしたんです。いわれた通り『教行信証』を何回も読みましたと伝えたところ、「あれは五十代で書いた若書きの本ですよ。本当の親鸞の思想は八十歳からの奥さんに宛てた手紙、あれを読まないと駄目だ」と足払いを食わされてしまった(笑)。要は、「よくできたね、二重丸つけてあげよう」なんてことは全然いわずにもっと先があるんだよと示してくれたわけですね。
もっと驚いたのは、九十歳を前にした山折さんが、ひとつの思想を背負い続けるのは嫌だからと、自分が慣れ親しんだ思想家の書物を次々と手離していって、ついには親鸞全集まで人にあげてしまったという潔さです。その一方で、「きみは『シン・ゴジラ』をどう思うか」なんて俗なことも訊いてくる。こういうことをいうと畏れ多いかもしれませんが、山折さんの在り方というのは、わたしにとってはひとつのロールモデルなんです。
ジェンダー、無意識、イデオロギー
人間は三つのものからできている
─ 冒頭に「ファシズムは語ることを禁じたことは一度もなかった。ただひたすら同じことを語るように、人に命じてきたのである」とありますが、近年のネットの状況などを考えてもとても印象的なフレーズです。
誰も命令しているわけではないのに、みんながいっているから自分も同じことをいう、あるいは、人間というのはこういうものだ、女はやっぱりこうだといったステレオタイプの物いいを、われ知らずのうちに強制される、それがファシズムです。
ですから、たとえば左翼、右翼、リベラル、保守といったある枠内に自分を位置づけてそこから何かをいったり、何十万人の共同署名のひとりとして数の中に入れられてしまうことはわたしは嫌なんです。人間は数ではない。南京で何万人死んだとか、コロナで何万人死んだとか、ある出来事を数に還元してはいけないんですね。一人一人が生身の人間として、右を向いたり、左を向いたりしているわけですから。大勢の人が匿名的に同じことをいっているような言葉とは違う言葉の中に自分を置いておきたいということです。
─ 今度の本は、『週刊金曜日』に書かれたコラムを中心に編まれていますが、一九八二年から現在に至るまでほとんど休みなく週刊誌にコラムを書かれてきたそうですね。四十年を振り返ってみて、いかがですか。
わたしが最初に書いた韓国の本(『われらが〈他者〉なる韓国』一九八七)の平凡社ライブラリー版の解説で、鵜飼哲さんが、四方田はノスタルジーや歴史的使命感などから自由だとひとたび信じることで、「韓国に向かってジャムプした」のである、と書いてくださっていますが、確かにそうなんで、最初はたまたま同級生がいたというだけで韓国へ行って、ハングルって何だというところから始まり、いろいろな問題にぶつかっていき、帰ってきてから勉強する。初めからある原理なり枠組みをもって行くのではなく、「見る前に跳べ」で行ってしまう。そんなことを四十年間やっているわけですが、やっているうちに幾つものパースペクティブが重なってくる。
まず一つに、最初に行って勉強したところが韓国だったということは自分にとって大きなことでした。二番目は、さきほどいったイスラエル、パレスチナ、コソヴォでの体験、この二つが自分の書くもの、思考のスタイルに変化をもたらしたと思います。
無論、いくらスタイルが変化しようと、書いているのは四方田という個人です。ただ、個人というのは結局三つのものからできている。
一つは、ジェンダーです。わたしはたまたま男に生まれたので、女性がどんなふうに世界を見ているかについては臆測しかできない。
もう一つは、無意識。つまり、自分が子どものときからどう育ってきたのか、周囲にどんな人間がいたのか、そういう環境の中でいろいろな記憶を蓄積している。ユングにいわせると、人類の始まりから無意識というのはあるそうですが、その無意識です。
三つ目は、イデオロギー。いくら時代に抗おうと思っても、われわれは知らないところでこの時代のイデオロギーの中で動かされている。たとえば、言葉がそうです。つまり、十九世紀初頭のヨーロッパに生きていたら、われわれはまだ階級という言葉も無意識という言葉もジェンダーという言葉も使っていなかった。けれども、マルクスとフロイトが出てきた後に生きている人間は、西洋に生まれようが東洋に生まれようが、マルクスに賛成だろうがフロイトに反対だろうが、階級、無意識、ジェンダーといった言葉を使わなければ思考ができないわけです。要するに、世界や人間のことを語るときのヴォキャブラリーが十九世紀とは変わってしまったということです。
だから、いくら四方田は独創的だとか、俺しかできないとかいったところで、その三つの要素の関数にすぎない。いかなる個人も、たまたま三つが重なったところでできている。なんやかんやいったってわれわれは、結局、歴史の中でしか生きられないのですね。
問題は、そのことをいかに見つめるかです。同じ歴史といっても、そこには声を潰された人たちの歴史がたくさんある。たとえば、ベイルートの国立博物館は一九八二年にイスラエルの爆撃によって壊されたのですが、ベイルートの人たちは、その破壊された歴史もきちんと見てほしいと、壺の破片などもそのまま展示する。そういうベイルートの歴史に触れたことは、やはり大きな体験でした。
ベイルートつながりでいうと、わたしが親しくしていたベイルート出身のジョスリーン・サアブというドキュメンタリストがいました。今度の本にも何度か名前が出てきますが、アラブ圏の女性映画監督のトップランナーだった人です。彼女はベイルートで生まれ育って、百五十年ものあいだ住みつがれてきた家を爆撃で壊されてしまい、翌日そこに十六ミリカメラを持ち込んで、イスラエル兵の兵隊ごっこをして遊んでいる子供たちを映画に撮る。そうやって、ベイルート三部作というドキュメンタリーに残すんです。
彼女とは、日本赤軍の最高司令部の重信房子の娘のメイとお母さんとの関係についてドキュメンタリーを一緒に撮る予定だったのですが、二〇一九年の正月に彼女が亡くなってしまい、実現できませんでした。彼女は病気を押してベイルートへ行き、最後に七分間だけ重信メイについての映画を撮り、そこで力尽きてしまう。彼女の死は非常にショックでした。
そうしたことも含めて、この本はわたしの十年間の記録です。ここに書かれているのは、ほとんどが自分の目の前で起きたことで、接写というか、クローズアップの連続なんです。そういう意味では、自分の十年間のドキュメンタリーといってもいいかもしれません。扱う書物や取り上げる角度、構造の切り方など決して一様ではありませんが、大げさにいえば自分の精神というか情熱のようなものがつくった一冊だと思っています。
四方田犬彦
よもた・いぬひこ●映画誌・比較文学研究家。
1953年大阪府生まれ。東京大学で宗教学を、同大学院で比較文学を学ぶ。明治学院大学、コロンビア大学、ボローニャ大学、テルアヴィヴ大学、中央大学校(ソウル)、清華大学(台湾)などで映画史と日本文化論の教鞭をとった。著書に『月島物語』(斎藤緑雨賞)『映画史への招待』(サントリー学芸賞)『モロッコ流謫』(伊藤整文学賞・講談社エッセイ賞)『ソウルの風景─記憶と変貌』(日本エッセイスト・クラブ賞)『白土三平論』(日本児童文学学会特別賞)『翻訳と雑神』『日本のマラーノ文学』(二作が桑原武夫学芸賞)『ルイス・ブニュエル』(芸術選奨文部科学大臣賞)『詩の約束』(鮎川信夫賞)等多数。