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引きかえせない迷路
小説のほとんどの場面に登場するのは菱沼と紫織の二人だけ。しかし、それは肉体が二人分なだけで、精神的には幾人もの人物が現れる。表に出ている紫織以外に、調理研究室のあかり、天真爛漫な女子高生のさゆり、自殺願望のあるひかりなどの人格が、一人また一人と菱沼の前に現れるのだ。
解離性同一性障害を扱った作品としては、ダニエル・キイスの小説『五番目のサリー』とノンフィクション『24人のビリー・ミリガン』とその続篇が有名だ。前者は主人公の人格の一人が語り手であり、後者は客観的に三人称で描写している。『対になる人』はそのどちらでもない。菱沼が一人の他者、それも異性愛の対象として紫織とその内なる人格を愛し、作家として介入する。そうするのには理由があった。菱沼自身が大人になってからも「悪い逸郎」と名付けたイマジナリーフレンドと対話していて、解離性同一性障害を病気だととらえていないからだ。
「齊藤紫織を知って心底から確信したのは解離性同一性障害は精神の障害というよりも、人間の精神、脳の可能性を強く示唆する事柄であるということだ」
紫織という迷路にずぶずぶとはまり込む菱沼に、「悪い逸郎」はこう毒づく。
「いいか。おまえは、もう引きかえせないんだよ。ゆるい文豪が文学趣味でどうこうできる地平は、とうに過ぎちまってるってことだ」
この臨場感、没入感は、読者の脳に語りかけてくる小説ならでは。読者はその言葉を受け入れ、脳みそごと濁流に吞み込まれればよい。
ただしあとがきは先に読まないこと。そこに驚くべきもう一つの物語が待っている。最後の一ページまで気が抜けない傑作だ。
タカザワケンジ
たかざわ・けんじ● ライター、書評家