[今月のエッセイ]
開かれていく石川淳の世界
『最後の文人 石川淳の世界』が集英社新書として刊行された。石川淳(一八九九~一九八七)はフランス文学者・翻訳者であり、芥川賞作家である。
著者は山口俊雄、小林ふみ子、
本の紹介をする前に、私がなぜ江戸文化論の中で石川淳に言及したかを書いておきたい。私は大学で近現代文学を専攻していたが、その時に読んだ『石川淳全集』所収の江戸文化論で衝撃とともに江戸文学と出会い、江戸文学研究の道へ進んだのである。全く関心のなかった江戸文学に眼と心を開いてくれたのは、学者の研究ではなく石川淳の評論だった。それ以来、私の江戸文化論は石川淳という拠点において展開したと言ってよい。
シンポジウムの話に戻ろう。山口氏の問題意識はよくわかった。それは彼が「はじめに」で書いているように、「閉塞感に満ちた現在を相対化し、できれば脱出の手立てを考えるため」に、「自由」と「江戸」をキーワードにして存分に思いを語り、新たな文学の見方を発見しようとする企図だったのである。シンポジウムは「一九八〇年代の〈石川淳〉と〈江戸〉」というタイトルになった。石川淳は一九三五年から作家活動をしているが、ベストセラーになった『狂風記』(集英社)が一九八〇年の刊行であり、それが一九八〇年以降の江戸文化論の盛況につながったからである。
石川淳の作家活動は最初から、江戸文学と不可分だった。そのことが石川淳の小説を難解だと思われるものにしていたのかも知れない。しかしそれはとりも直さず、現代人である我々が日本文学、とりわけ江戸文学を意識の彼方に放置し、西欧文学こそ文学だと思い続けてきた結果なのである。しかし石川淳はフランス文学者であるからこそ、日本の古典文学をないがしろにすべきでないことを知っていた。むしろ江戸文学は自らの重要な方法的拠点になり得ると認識していた。そのことは例えば、鈴木貞美氏が石川淳の小説のタイトルから発見している。「佳人」「貧窮問答」「
だからと言って、小説を漢詩文のように仕上げたわけではない。むしろその反対で、日本の近代文学が作り出した私小説という方法のもとで、欲望に満ちた赤裸々な日常生活をそのまま書く。しかし人間は生活しているだけではないから、同時に頭脳の中に展開している世界も書く。例えば、生活と同時進行で「わたし」がものを書き続けている、その世界が見える。主人公が書いている作品と、主人公が生きている現実とが交叉し重なる。あるいは、現実生活として見えている人物配置が実は物語の構造であったり、異なる時代と同時に進行している。目の前の人間が、何百年も前の他の人間の反映である、という「見立て」「やつし」構造も石川淳作品の基本的方法である。時には活劇のようであり、時にはSFのようである。『狂風記』や『六道遊行』などは、ゲームにもできそうだ。
「石川淳を中心において『昭和』の文芸文化史を見渡すなら、景色がガラリと変わるだろう」と、鈴木貞美氏は述べている。他の作家と異なる方法を手にしているのは確かだが、それぞれの時代の現実社会や文学状況と無縁でないどころか、常に強い影響を受け、あるいは影響を与えた。決して特殊な作家ではなく、むしろその作品は状況に対して常に開かれているのだ。
「おわりに」で山口俊雄氏は「石川淳はこんなにおもしろいのだから読み継がれなくてどうするのだというのが編者を初め本書の執筆者全員の思いである」と書いた。その通りだ。
本書は個別ばらばらの論文集にならないよう、山口氏が各執筆者による章の冒頭でその章の案内をしてくれた。また、小林ふみ子氏の章は石川淳の江戸文学観を研究者として批評的に掘り下げ、帆苅基生氏は「狂風記論」を当時の集英社の編集理念との関係で論ずるなど、本書は作家論に終始せず、各章が対話しながら外に広がっていく構造を持ち得た。末尾に石川淳の代表十二作の解題も置いた。少しでも石川淳が気になるかたに、難解でありながらわくわくするその自由への羽音を、共有していただきたい。
田中優子
たなか・ゆうこ●江戸文化研究者。法政大学前総長。
1952年神奈川県生まれ。著書に『世渡り 万の智慧袋』『グローバリゼーションの中の江戸』『芸者と遊び 日本的サロン文化の盛衰』『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神』等多数。