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今月のエッセイ/本文を読む

泉ゆたか『雨あがり お江戸縁切り帖』刊行記念エッセイ
いつか縁が切れてしまうとしても

[今月のエッセイ]

いつか縁が切れてしまうとしても

 正しいことがしたい。正しくありたい、と思う。
 身体に悪いものからはきっぱり遠ざかり、日々規則正しく生きたい。
 怠け心をなくしたい。目標を達成するためにやらなくてはいけないことに、迷いを捨てて全力で向かいたい。
 そして私の心をかき乱し、右往左往させてばかりのあの人とはきれいさっぱり縁を切ってしまいたい。
 あの人といると、私はいつだって格好悪い。気がしおれて力が吸い取られる。あの人の顔色ばかりを窺って、いつも心の中では半泣きだ。
 今度という今度はきっぱり縁を切るのだ、と胸に誓っても、あの人が私に向かってにこっと笑いかけるともう駄目だ。
 こんなに私を求めてくれる相手と「縁を切る」だなんて。非情なことを考えた自分にぞっとする。
 落ち着いて考えてみれば、あの人は別に悪い人間というわけではない。ただ私の胸をひどくざわつかせるというだけの話だ。
 ならば、なにもわざわざ相手を傷つけることはないだろう。付かず離れずを保ちながら、ほんの少しずつ距離を置いていけばいい。気付いた頃にはお互い、連絡先も知らないくらい遠いところにいるはずだ。
 そうだ、そうしよう。それが良いに決まっている――。

『雨あがり お江戸縁切り帖』は、明暦めいれきの大火後、焼け野原となった江戸の町を舞台に、“縁切り屋”のお糸が、人と人とのこじれた縁を断ち切る物語だ。
 長屋で代書屋だいしよやを営むお糸の元には、日が暮れるとさまざまな人々がやってくる。夫や妻、幼馴染、役者と付き人、ママ友などへ宛てた「縁切り状」の代書を頼みに訪れるのだ。
 縁切りを決めた者は、誰もが皆、並みならぬ決意を胸に抱えている。ひとりきりで幾晩も悩み苦しみ続けた末に最後の最後に頭に浮かぶ結論、それが「縁切り」だ。
 もはや相手が何を言おうとも、どう変わろうとも、気持ちを覆すことは決してない。
 あなたのことはもう知らない。私はそう決めたのだ。
「縁切り状」の文面はそれぞれ違えど、底を流れる固い決意は皆、同じだ。
 しかし、一方的に縁切りを言い渡されたほうは、いつだって寝耳に水だと驚く。
 自分がしでかした仕打ちを完全に忘れて真っ青になる。相手の非情さを責め立て、泣き落としにかかり、挙句の果てには“生き霊”を飛ばす。
 ある理由からその“生き霊”が見えてしまうお糸は、長屋の人々と共に、依頼人の「縁切り」を遂行すべくさまざまな騒動を巻き起こす。

 本書を執筆しながら、いろんな人の顔が浮かんだ。
 どれほど懐かしく思っても今はもう会えない彼らの顔を思い浮かべるたびに、胸がちくりと痛む。
 なぜ人と人との縁は、終わってしまうのだろう。
 ここまでは自分が縁を切る側のような物言いをしたが、私のほうが相手を失望させて見捨てられた局面はいくらでもある。そちらのほうは消え入りたいくらい情けない記憶として、思い返すのさえ辛い。
 出会ったその日の浮き足立つようなわくわくする気持ちを思い出すと、深い虚しさに襲われる。こんな切ない想いをするのなら、誰とも出会わず誰とも関わらずに、人里離れた山奥で俗世との関わりを避けて暮らしたくなる。
 だがきっと私には、決してそれはできないともわかっている。
 いつか縁が途切れてしまうとしても。道ですれ違ったら気まずく顔を伏せる相手になってしまうとしても。ひどい場合は憎み合い、もっとひどいときは出会った記憶さえ頭の中から消し去ってしまいたいと願うとしても。
 誰かと出会うこと。誰かと微笑ほほえみ合って束の間のときを過ごすことは、私にとって他の何物にも代えがたい嬉しいことなのだ。
 相手のことをもっと知りたい、自分のことを知ってもらいたい。そう思うとき、この世はまだまだ捨てたものじゃない、という気がする。植物が水を吸うように、身体中にぐんぐん力がみなぎっていく。

「縁切り屋」を訪れた人々の縁切りは、果たして無事にうまく行くのか。
 皆さまの心の中のあの人を思い浮かべながら、ぜひ楽しんでいただけましたら幸いです。

泉ゆたか

いずみ・ゆたか●作家。
1982年神奈川県生まれ。早稲田大学大学院修士課程修了。2016年に『お師匠さま、整いました!』で第11回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。著書に『髪結百花』(日本歴史時代作家協会賞新人賞、細谷正充賞)『お江戸けもの医 毛玉堂』『江戸のおんな大工』。

『雨あがり お江戸縁切り帖

泉ゆたか 著

集英社文庫・発売中

本体680円+税

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