[今月のエッセイ]
立ち止まるための「旅」
「読んだら旅に出たくなる本にしましょう」
編集者さんとそう決めて、短編小説の連載に取り組んでいる最中に、まさかのコロナがやってきた。執筆が残り二本となったころだ。
日に日に外出がままならなくなっていく中で、どうにか書き上げることができたのは、これまでの旅の写真と日記のおかげだ。
弾丸旅行ばかりだが、折を見て隙を見て遠出する。そう頻繁ではないが、中年なのでまあまあストックはあるんじゃないかと思う。
国内は友人と。海外は一人のことが多い。小説や映画に登場する場所を目指すのが楽しみだ。北欧ミステリ『ミレニアム』に載っていた地図を見ながらストックホルムを回り、原田マハさんの『風神雷神』を読んでマカオの世界遺産を巡って、映画『犬神家の一族』に登場する長野県青木湖の前で登場人物の物真似をした。
旅で欠かせないのは旅日記だ。普段の日記は忘れがちなのに、旅先では必ず書く。書きたくなる。どんなに親しい人と旅をしていても、分かち合えないもの、一人で嚙み締めなければならないことがあるからだ。たとえるなら味覚、もっと大きく言えば人生のように。「みんなで一人旅」というタイトルはそこからつけた。
それでも心を支えてくれるのは連れだ。本当は誰かにそばにいてほしい。心が動いたことがあれば聞いてほしい。
だからだろう。一人のときの旅日記は量が増える。暇さえあれば、Dear Diary ——親愛なる日記さん、のノリで日記にぶっちゃけている。作中に登場する、ウラジオストクの「真夜中の太陽」で目覚めてしまったときも。ソウルのホテルでなぜか病院用のベッドに寝転びながら。移動中も手のひらサイズのメモ帳や、使用済みの eチケットの控えや地図の裏側にちまちまと書く。
「なんで隣の人はずっと独り言? かまってちゃん?」
「高速艇つまんない 窓の外泥水だけ」
「おじさんキレてる でも案内とちがう」
「アナウンスがなかった! 共和国こわい」
薄ら寒い文章ばかりだが、気持ちを発散させるためだけだからいいのだ。あとで読み返すと、ありありとそのときの気持ちが蘇る。
しかしコロナが襲来し、旅は当分手が届かないところに行ってしまった。
この原稿を書いている九月初旬の時点で、東京に住んでいる私は海外どころか国内旅行も当分行けそうにない。
海外旅行には行けず、国内旅行ももう気軽に考えられない今の時期、「コロナ以前」の旅を描いた私の小説は、いったいどう受け止められるのだろう。
旅をすると必ず訪れる瞬間がある。
旅の初め、半ば、終盤。タイミングやきっかけはさまざま。連れがいるときは深い話になったときが多い。それか、疲れたり意見が合わなかったりして空気がぴりっとなったとき。一人のときは小さなひっかかりから。
「九年前に撮ったパスポートの写真 イミグレでこれはお前かときかれガン見された」
「二日酔いでぐだぐだ ×万かけて来たのに」
「おみやげどうしよう」
そこから自己分析が始まる。老けすぎなのか。なぜ一人でも飲みすぎてしまうのか。あの人との最近の微妙な関係について。考える時間があるからだ。そしてときには「充実した老後を迎えるためには」「よりよく生きるためには」と発展していく。
旅とは立ち止まることでもあると思う。日常から切り離されることで見えてくるものがある。
旅と同じように、と書いてしまうと辛い思いをしていらっしゃる方に申し訳ないが、ステイホームという非日常で、同じように足を止め、そして見えたものがいくつもあった。
『みんなで一人旅』の登場人物も、それぞれが旅するうちに向き合う。自分自身と、そして大切な人と。もしかしたらそこは、今だから、より共感していただける部分ではないかと思う。
遠藤彩見
えんどう・さえみ●作家。
東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、『給食のおにいさん』で作家デビュー。シリーズ化された同作の他に、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』がある。